(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成29年6月号

 過日、教会を訪ねて来られた方の事である。この女性、どうしても筆者に会いたいと言うくせに、人を介して教会にやってこられた。そして曰く「優しい事しか教えず痛い目をさせない子育てで良いのでしょうか」と仰った。仰る通りである。
  心の時代と言われたのは筆者が滝打たれを始める前だから、35年は経つし、それ以前の「数字でない価値観の大切さ」と言われてから40年は経っている。その二つの時代に育って来た子供達が今、子育て真っ最中を迎えている。或いは会社で人材育成の真っ最中である。そしてその多くが優しい事しか教えず痛い目をさせられないで育って来たのだ。
  「自分が子供の頃にして欲しくても、してもらえなかった事を子や孫にしている」…それを良い事だと錯覚していると、くだんの女性は仰る。それもその通りだと思う。
  子や孫を玩具にして満足している。傍からそれを見れば、玩具だからまともに育たなくても構わないのだ。もっと言えば、私(親)が満足すれば良いのであって、子や部下が何を思い患おうとどうでも良い事なのだ。子育て・人育てが満足に基づいている…それで満足しているのだから子の心の陰りが見えるわけがない…。子や孫の為にどんな犠牲を払っても、と思い、そのように思っている親自身を自ら素晴らしいと思う錯覚…。
  「ここまでやったのだから、あとは自力で生きなさい」を親が思いつかないのは辛い。自力で生きなさい、という事が頭に浮かばず、子供の時にしてもらえなかった思いにつなげて満足する。親の考えの間違いに気づかないばかりか正当化してしまう。つなげてみても、正当化とは別問題なのに、だ。
  優しい事しか教えず痛い目をさせないのは、要するに自分の居場所を家や立場を求めて、それらを確認し確保したいだけで、子や孫などは二の次なのだ。
  それで子や孫がまっとうに育つならまだ良いが、それはあり得ない。なぜなら「逞しさ」がないからだ。逞しさ、つまり何が起きても自力で生きて行ける自信をつけさせる事こそ家庭教育の在り方なのだ。
  それなのに、世話を焼いてもらって当たり前、になっている。焼かなくても良い世話、いや焼いてはならない世話を焼いてもらって育つのだから、子や孫はそれ以外の価値観を知る訳がない。どこか違うと感じていてもそれが何なのか判らない。そして子や孫に一本立ちをさせない。それは親が一歩立ちをしていないからだ。
  一本立ちした人あるいはそれを志す人は、自分に快い居場所はない事が判る。そもそも居場所は快い訳が無い。ただ快くない事に慣れてしまうから居られるだけなのだ。居場所がないから、逆にどこでも居場所にする事ができる事も判る。快い居場所を求める必然が不明となり、もとより快い訳がないのだが、だからこそ、どこででも独力で生きて行けると思える。逞しさとはそういう事だ。
  一本立ちできない分だけ優しさ万能で事に臨む。それは優しさではなく、無責任・自分勝手でしかない。
  親は子に距離を開けて、子のやる事を黙って見ているだけなのだ。黙って見ている事…それは一本立ちしたヒトしかできない事である。黙って見ている事が一番つらい事だ。だが、ヒトとして誰でも通らねばならない道なのだ。
 同じようにヒトには通らねばならない道がある。それは全て苦痛を伴う。対して、楽しくて通った道は思いだす事すらできない。苦しいから成長するのだ。痛みの量こそが逞しさの量で学びの量なのだ。逞しくなるために学ぶために通るべき道があって、そこには痛みが待ち構えているものなのだ。
  痛みを感じるのは個性で、個性は人それぞれだから自分の痛い部分に向かって行けば、通るべき道を通った事になる。その痛みを周りに代わって貰ったって無意味なのだ。当然にそれは愛情とは言えない物で、自分勝手な満足、我がまま、としか言えないものなのだ。




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