(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成29年8月号

 共同作業というものはその人の内面を映し出す。しかも実に見事にである。人の事は言えない自分である事を承知した上で言わせて貰えば、普段どれほど偉い事を言っている人でも、その人の実質が浮かび上がる。だからこそそれを自ら知る事が肝要で、知った上で自分がどう変わるべきかを、変わらない事を含めて自分で考えねばならない。共同作業はその意味で誠にありがたいものである。
 とはいえ、自分で満足しては自分の実質を知る事はできない。満足からは三分間の安堵以外の何物も生まれないものであるからだ。
 昨年の夏登拝で、筆者はぶち切れた。それでも以前に比べたら少しは大人になった様で、あの場で「即刻中止・解散」とは言わなかった。そうやっても伝わらないと知るようになったからだし、判らないのだから修行に励まねばならないのだ、と思うようになったようだ。
  蛇足だが「即刻中止・解散」はある意味、筆者の恩師の常習行動でもあった。生徒に熱意が無いと感じると、この恩師は授業放棄して教務室に帰られるのだった。それを謝って教室に戻ってもらう役が私の役回りだった。生徒に対する溢れすぎる期待がみてとれて、筆者には、いや叱られた生徒全員がこの先生を好もしく思っていた。恩師の弔辞を言えと言われて、謝り役専門の筆者が何で…と思ったが、なんとなく通じていたのかもしれない。
 それはさて、本題は共同作業であり、満足する事についてである。
 例年の夏登拝ばかりではなく、団体行動では普段のその人の行動が丸だしとなる。その団体行動で落伍者を作らぬ為に申し合わせをする。事前相談を行って始まる。だがその事前相談のスケジュールのままに行動が行われる事はない。団体行動だから予定はあってないものなのだ。
 だから無理して予定を完走しても意味が無い。その一瞬一瞬を集中してやるしかない。だが、集中してやる事ができない人が多い。結局自分に折り合いをつけて行動してしまう。折り合いと言うが、それはハードルを低く設定するという事になる。と言うよりハードルを設定する事自体が満足を得るためのものになってしまう…。満足を得たら学んだことにならないのに、だ。
 折り合いをつけるとは、そこで行われる行動に例えば「恥ずかしくないように」とか「自分なりに楽しく」とか「苦手な部分は省略して得意な人に変わってもらって」とかいうように、自分でサブタイトルをつけるという事である。サブタイトルをつけて行動するとは、その段階で本来求められていない行動をやってしまうという事である。大勢の中に居て、自分だけがサブタイトルを味わう事になる。だが大事な事は、求められている事を完走する事にある。
 求められている事を行うという事は、結果を出すことではない。団体行動では単独行動の様な孤高の結果など設定していない。孤高の結果でないとは、皆で到達できる結果と言う意味である。つまり個人が完走して到達する結果のはるか下に団体行動の結果を想定しているのである。
  そのはるか下の団体行動の結果へのアプローチは、一人で完走する苦しさに比べたら苦しい訳がない。だが団体で行動する事を苦しいと思う人は多い。それだけ過去に一人で生きてきていないからその程度を苦しいと思うのだ。団体であっても一人の作業として行えば済むのだ。一人の作業として行うという事は真摯に行動するという事であって、真摯とはサブタイトルを付けないで訳のわからない苦しさを受け入れる事なのである。この訳のわからない苦しさこそが、実は問題の実体なのである。
  何ごとも実体と言うものは説明がつかない。やってみて感じる事であって、言葉に置き換えられた段階で間違いに位置される代物なのだ。それなのに、事前に判らないと行動できないと多くの人は言う。失敗しないで人と横並びの結果を出そうとする…横並びの結果は真実のはずがない。だが横並びの結果を得て失敗しなかったと思う…不思議な事だ。




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