(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成29年9月号

 御嶽へ地震の調査に行った。想定内の被害で安堵したがこれから起こるであろう山津波こそ心痛である。その帰りしな、山麓に住んでおられる人に「青木先生の所だけ無事に残りましたね。さすがお山の神様ですね」と言われ更に「青木先生の所だけですから、懸命にやっているのは」と仰った。ヒトのあさはかな思いの為に使い走りをさせられる存在、そんな神はおるまい…だが神のご加護を得て自分に都合良い事をして満足している人も多い。ハッピーであるべき人生をラッキーに大きく格下げして満足してしまう人は多い。
 でありながら、お山の神様が怒っておられる、とも思ったりしていた。それはこのお山に白装束の団体が入ってきて、いきなり現世利益を続けて来て、その信仰?スタイルで300年余りを通して来たからだ。
  御嶽は我々の教祖の再生された場所で、いわば我々の聖地である。教祖は現世利益を説く人々とは一線を画しながら、このお山を聖地にして来た。だがこのお山はとうの昔に宗教でなくなっていると、筆者は思ってきた。ましてやその人の思いや願いを代行する「拝み屋」さんは現世利益の最たるもので宗教たりえない。
  以下は少し歴史の話になる。明治維新は国の土台を一新した。宗教も神社を国の宗教と定め、いわゆる祭政一致の政治形態を採った。神道は「国家の宗祀」であって「宗教」ではないというのが明治政府の見解で、「神社局」と「宗教局」に分離し、神道とその他諸宗教を明確に区別した。その他諸宗教とは、元来ばらばらに存在した民衆信仰的な人々を意味した。明治時代に14派が公認された。民衆信仰的な…とは大道易者や拝み屋さんを言っている。彼らを悪く言うのではない。現にその類は多く存在し、生業にしている人もいる。だが「教え」を持たないのに宗教にされた事が間違いと言えた。
  …そういう生業の人々が御嶽山麓に白装束姿で大挙して入って来た。江戸時代の事である。山麓の人々の山仕事の作業小屋を登拝の基地として利用した。木賃宿としてであった。
  そういう人達を受け入れさせられて来た山麓の人達は彼らをどう見て来たのだろう…。山麓の人達は拝み屋さんの裏側を多く見て来ざるを得なかった。必然的に行者の質の低い事も熟知していた。何より、占いがヒトとして生きるに本当に必要なのか、というと否定的な醒めた目線は強かった。山麓の方々の冷たい視線は今に始まった事ではない。だが噴火以降、山麓の方々の冷たさを拝み屋さん達は感じようとしなかった。
  拝み屋さん達が山麓の人々に心の在り方や生き方を説いて来たならば、もっと支持をされただろうに、と思う。行者達が山麓の発展と口にするのは、山麓の人々が静かで心穏やかに暮らせる事ではなく、自分の生業のステージ確保でしかない。噴火し地震が起きても、現実の利益以外に結び付く物事が無いのは悲しい事だ。
 神という絶対的な存在は沈黙して摂理だけをお示しになる。絶対的存在は人を育てる要諦の『黙って見ている』を自ら行われておられる。宇宙の中でヒトが泣こうが喚こうが知った事ではない。それをして、神なる存在に守られているという意味になる。だからこそ私達は日々を自分らしく活きいきと生きて行かねばならない。自分を救うのは自分だし、自力の実践なしでは救いはない
  悩んでいると言いながら、悩みからの解放の実践を自力で行わない。悩みを生んでいる現実を一切そのままにして解決しようとする…あり得ない。あり得ないところに、拝み屋さんがおられる。拝み屋さんは例えば福沢諭吉の数枚でそんな現実の解放を実現しようとする…。頼む人はその程度の金を高額と思うようだ。だが高額と言うが数万円の程度の人生に自分でしてしまっている事に拝み屋さんも依頼者も気づかない。自分で最大限の努力をしつつ、願う事はしない。いや、努力したくないから他力で願の実現を思う。何の為に生きているのか、なんの為に願いがあるのかという問いは一切存在させなかった。そういう問いかけを拝み屋さんはしてきていなかったのだ。




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