ヒトには三つの貌(かお)が必ずある.顔ではなく貌である。3つとは個人の貌・家の貌そして社会の貌である。この3つはそれぞれで常に対立していて、貌それぞれは痛みを相応に負担しあって日々が成り立っている。日々が思うように行かないのは、この3つの貌が並び立たないからだ。1つの貌を立てれば他の2つの貌が立たないから、2つの痛みの相応負担がついて回る事になる。
逆に言えば、3つの貌がそれぞれに痛みを相応負担していてこそ、健全な人生なのである。個人は自分の内に3つの思いが対立していてこそ、普段の一日なのである。つまり自分の中で自分同士の争いがあってこそ健全な一日と言えるのである。
自分同士の3つの貌の争いは、結局は、何を優先すべきかを常に判断し続ける事を意味している。
例えば、個人の貌(自分の思い)を捨てねば家を守れない時がある。自分のやりたい事をやらずに、子育てに当たらねばならない時がある。自分のやりたい事と社会での貢献とが一致していても、それでも家の事を最優先せねばならない、そのようなしがらみのある事もある。
例えば、家の貌を捨てねば社会の貌を守れない時がある。仕事を優先せねばならなくて、家の事を後回しにせねばならない時がある。近所付き合いを家の事より優先せねばならない時もある。個人としてやりたい事と家への思いとが一致していても、である。
…常に後ろ髪引かれる思いで、今やるべき1つの事に集中せねばならないし、今やるべき事は気に入らない場合こそ多いのだ。それが普段なのだから、3つの貌の内の1つの貌だけをいつも優先しているならば、真実生きていない事になる。常に仕事優先、常に家庭優先…現代はそれをして幸せと称して憚らない。だが自分がそれをされて判るように、第一に優先させる事が常にあって生きるのは、廻りでは我がままとしか見られず、当然に傍迷惑なのだ。
3つの貌のどれを優先すべきかはその都度変わる。そこから不本意の思いが生まれ、痛みやストレスとなる…常に今が不本意だから学べる。不本意だから行動しなかったり無理やり自分の思いを通す…だから学べない。それが現代の安直な幸せだ。
子供の頃のように、痛みのない一日はありえない。子供のころは親とか回りが痛みを代行して背負ってくれたからである。代行して背負って貰う事の是非は別にして、だから痛みと学びが無いのは、正に子供の生き方なのである。3つの貌の内の1つの貌だけをいつも優先して心痛まぬならば、大人であっても子供の生き方である。
物ごとを断る時に「仕事だから」を常用する人がいる。同じように「家庭が大事だから」とか「忙しいから」を理由として常用して不本意な事をやらないようにする…。そういう人は常に1つの貌だけで生きようとしているという事で、子供の生き方なのだ。大人の生き方とはその都度変わる優先すべきものに全力で当たって行けるという事だ。
だが歳を重ねても、3つの貌の痛みの相応負担を知らない人がおられる。そういう人は自分ばかりが相応負担を背負って、周りが背負っていないと考える。自分ばかりが…と言う人は、周りの人の相応負担を理解できていないだけだ。
同じように常に1つの貌で生きられない事を不幸と断じる人もおられる。だが一生を1つの目線で生きて、その結果、成果を上げられたとしても、生きた事にはならない。…成果を上げても個人の総合力が低かったり一面的であったりする人がいる。そういう人はいつも1つの貌で生きて来て、総合的に学んでなかった人と言える。
3つの貌の痛みを相応負担して行くから、総合的に生きざるを得ず、結果として真実という正解に巡り合うのだ。1つの貌だけで生きて成功し、成功を得意に思えても、根本は我がままであって、美意識にすらならない。でも、ストレスの相応負担がないから幸せだと錯覚する…それは大いなる愧(は)じである。
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