(毎月発行の『連絡紙』より)

●平成30年2月号

母親が嫌いな娘が増えているという。母親を殺したいとか、母親から解放されるため死にたいと思っている娘は多い、とあった。その事に母親は気づかないし、逆にむしろ良い親だと自負しているようだ。母性と母とは大きく違う…と思う。
 大人になりたくないと思うきっかけの多くは親との事からだ。子は精いっぱい背伸びをし、良い子になって親の笑顔を見ようとする。子が見え透いた嘘をつくのも、親を喜ばせたいからである。
  育児に多くの時間を費やすのは母性を持つ女性である。その母性を簡単に無視し壊せるのも、親である。子供が一番先に大人に不信感を覚えるのは母親からのようである。殊に良い母親であろうとする親にこそ、である。何で良い親になろうとするのか…そこに問題がある。
  良い親であろうとする人ほど、不思議と友人がいない現実がある。友人がいないのは人間関係を上手く作って行けないからだ。だがどんな時代でも誰でも人間関係は大きなストレスなのだ。ストレスで孤立する分だけ良い親でいて、それを最後の居場所にしようとする。つまり自分が良い親になる事で、自分の存在価値を作ろうとする。自分の為に良い親である事と子にとって良い親である事とは大きく違う事に気づくべきだ。
  殊に母親にとって、子は分身=自分、であると錯覚できているから、自分の為にと子の為にとが区別がつかない傾向が強い。母親にとって子は分身=自分だから、自分の一存で子を処断できる。ぐずぐずしていたら子が死んでしまう、だから一存で処断してしまう。一存で処断できる…それが母性の正体と言える。だからこそ子を活かす優しさになれると言えるのだ。
  母親は自分の思っている事を、分身であるから子もできる、と信じ込んでいる。だから、自分の我慢を子に強いていてもその無理が事が判らない。だから子の思いを壊してなんとも思わないし、むしろ正しいとすら思う。だから子は親に最大のストレスを感じ、やがて不信を感じるようになる。他人ならまだしも親であるから、子は逃げ場がないのだ。 
  例えば、子が悪い事をして親が学校に呼ばれる。母親の場合、多くはひたすら謝って自分にとっての嫌な時間を終えようとする。母親は自分が耐えられなくて、ひたすら謝って早く終わろうとしてしまう。子のために学校に行ったのに、親が耐えられない状況を第一にしてしまえる。だから子のやった事の是非を洗い直す事など到底できない。同席している子は、自分の言い分を無視して謝っている母親に不信を抱く。
  …母性と母親とは大きく違う。子の失敗する行動を見つめているだけ…それが子育てだ。だからいつまでも母性で子育てをしてはならないのだ。母性は優しいが、その優しさの実態は剛胆で直感的で残酷なのだ。
  だが子が自分を持つようになると、母性は次第に不要になる。生きる力は子が自ら養って行くしかないからだ。それなのに、自分の孤立しないポジションが欲しくて良い親になろうとする。その段階で母性はその役割を無くする。母性の役割をなくしているのに、子を一存で処断し続ける。それが親の愛情と信じ込んで、自分の思い通りに子を操ろうとする。 ただ、子を自分の思いで処断する仕切りが繰り返され、子とそして夫や家庭を仕切ってしまう。「大人なんて」と子が最初に思うのはこの理由のない仕切りによってである。
  子は親、特に母親に最大のストレスを感じ、やがて不信を感じるようになる。子が最初に不信を覚えるのが母親であった場合、その不信は大人・学校・友達にと広がって行く。子への処断を父親はできない。母性を持たないから、子を自分の分身と思えないし、当然に自分の一存での処断など浮かばないからだ。
  「ならぬものはならぬ」という躾け以外は母性で処断してはならない。子が自我を持ったら個性を見つけ、見つけた個性を、子に自力で伸ばさせないと…母性は害毒に変わってしまう。でも多くは良い母親というポジションを孤立の防止手段とする。




講話集トップへ戻る




トップ定例活動特別活動講話集今月の運勢@Christy