(毎月発行の『連絡紙』より)

●平成30年3月号

 新年に入ってからの事だ。今日から寒籠りという日だった。白玉の滝の真冬の滝打たれの事でラジオに呼ばれた。
  ラジオはテレビより有難い。自分の考えを少しは言えるからだ。テレビは画像で訴えるが、その画像を被写体の側で予め見ておいてからの放映ではない。どんな画像がテレビに流れるのか、実際に見てみるまで判らない。何よりも取材される側の伝えたい事など殆ど伝わっていない。放送局の思いだけで画像を編成するが、取材される側の思いは無視が多い。たかだかニュースの画像でも、放送局の記者の思いで画像が編成される…この意味ではニュースでもっても「やらせ」と変わらなくなってしまう。
 人の感覚器官は目・耳・鼻・口・皮膚である。(行者の場合はこの5つに心が加わる。だからそれを六根という)。その中で感覚を一番リードするのは目である。テレビでは見る側にとって興味ある映像が流れると、他の四感は盲いてしまう。それだけ視覚に訴えると言う事は、責任が大きいのだ。そこをテレビ局は判っていない。あるいは判っていて故意に情報操作をするのかもしれない。
  だから私的には、何であれラジオの呼ばれる事が嬉しいのである。白玉の滝のイベント直前で気ぜわしいのだが、県内一円に電波が届くFМ局であるから尚の事、都合をつけた。
 アナウンサーに「冷たい水に打たれて願(がん)を懸けるんですね」と言われた。
 あ、そういうように見られているのか、と思った。
  「いえ、願懸けはウチでは考えていません」と答えた。
  …冷たい水に打たれて一つの事を念じ続ける事は相当のキャリアがないと無理だ。滝打たれの最初は多くの人が強烈な感覚を味わう。冷たい水に対抗しているエネルギーが自分…という感覚が終わった後に残る。それが初打たれの強烈な感覚である。
  それは自分が自分でなくなるからだ。集中など、とてもできるものではなくて、我を忘れるからだ。忘我という言葉があるが、それも間違いで、亡我である場合が多い。
  自分の精神がそんな状況にあるのに、一つの事を思い続ける事ができるわけがない。だから、素人が願懸けなどできるわけがない。
  普段唱えている事でも滝に打たれるとそれが出て来ない。例えば小学校で習う算数の九九でも、出て来なくなる。だから「願懸けする位なら自力で努力せよ」と訴えている。ヒトはやるべき事をやり尽くした時に思いが強くなるのではない、むしろサバサバしてしまう。情念とか怨念とかはやるべき事ではなく、やりたい事の成果を期待する時に生まれるものだ。
  やり尽くした時には、心空っぽになって天命を待つ、心境になっているので、願を懸ける意味の無さを知ってしまうのだ。
  その、心境になった境地の時が、学んだ、という事になる。言葉や理屈に表現する必要が無いし、表現したら却って嘘が入ってしまう。
  だから「願懸けする位なら自力で努力せよ」となる。その努力とは集中と同じ意味となるし、学び終えた事と同義になる。
  滝打たれ健魂の会是では「集中は自己責任」と言う。それだけ集中とは難しい事である。それなのに、願懸け、という。ありえないし、仮に実現できても何の意味もない…。絵もそれが社会一般では通用する事だし、夢や物ごとの実現にそういう目に見えない力の利用があっても良い事になっているようだ。
 その社会通念がどうしても筆者には判らない。自力で集中して生きて、その結果として理解する・理解させられる…学ぶのは集中の結果だし、集中した体験の結果で学んでしまうのだし、幸せが見えてくるのだ。願懸けして夢が叶ってもラッキーなだけだ。願懸けよりも集中できる自己変革こそが大事なのだ。その結果、人生はどんなに不安があってもハッピーなのだ。ハッピーにできる人生なのに、それを願懸けしてラッキ―に変えて、どうしようとするのか。




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