(毎月発行の『連絡紙』より)

●平成30年5月号
 失敗してヒトは自分を開く存在なのに、その自分の開く失敗を隠そうとする。歳をとっても失敗を隠そうとする人がいる。そういう人は反射的に失敗を恐れるようだ。そして、良い自分をその都度作りだし演じる為に、嘘を言い嘘の行動を取る…これは年齢に関係しない。失敗を常とするかどうかの差でしかない。
 失敗する事を常とできない人は失敗しない事だけに拘る。だから嘘を言うし行動も偽る。大人は幾らでもその嘘をつく事ができる。だが堂々と失敗しない行動は失敗とは言わない。それなのに、失敗した自分を隠そうとする。冷めてみれば失敗は常なのだ。達人ほど失敗の数が多いのだ。失敗もせず恥ずかしくないようにして達人にはなろうたって、それは絶対にできない。
  それでも失敗が怖いという皮膚感覚を持っている。失敗は正解でないから悔しくみじめではあるが、恥ずかしいことではない。それでも失敗が恥ずかしい事だという意識は骨身に染み込んでいる。
  そうやって私達は親に躾けられてきたからだ。要するに「失敗は悪い事だ」と。その様に子に言う事を「愛情だ・優しさだ」と錯覚している親に育てられてきた。その挙げ句に『こんな子を持つと親が恥ずかしい』と子に向かって本音を口にして気を済ます…。
  子供は自分の家の事しか判らないで育つ。自分の家のルールを社会のルールと信じて育つ(だから素直な子ほど団体生活にそぐわないで、はじき出される)。だから親の価値観が子に染み込む…価値観であれば良いが、失敗は悪、という理由のないもの・正当な理由でないものを子が学ばねばならないのは辛い。引きこもりや登校拒否は親への反発から始まる。ひきこもったり登校拒否する子はむしろ正常なのだ。
  素直な子ほど団体生活にそぐわないで、はじき出される。社会にはじかれても親の躾けは身にしみていて、 素直と言うが、親の言う事を聞いて行動するだけの事で、それが極めて反社会的な行動である事を親が知らない…学校でも同じく、素直に生徒指導に従うように生徒をさせる。学校の生活指導は管理されやすい生徒に導いてしまう。それに反発する生徒はなお一層反発し,学校に不信を覚える。国の定めた教育というものが、その程度では国の将来は知れてしまう、事実、そうである。
  我が子をその様に躾ける親は実の所なぜ失敗が悪いのか、判らないでいる。そんな親もその親から、失敗するな、と躾けられてきたのだ。家を守る価値観の時代にはそれもあり、だったが、現代はそんな価値観は通用しない。それなのに、親はその親に躾けられた様に、失敗を悪い事だと子を躾ける。努力した事を認めないで結果だけを出しなさい、と言える親になる…。
  何で失敗が悪い事なのか…親の多くはそこを考えないで子育てをする。親は子供の時の家から生き方を学ばせられてきたのだ。失敗しない子で褒められて、良い子になれた…現代の親も良い母親のポジションが欲しい人ほど、子を失敗しない様に育てる。良い母親になりたかったら、自分が失敗をすれば済む事なのにそれをしない、と言うより気づかない。
  親になった途端、子供に失敗をさせないで育て、それで良い子に躾けようようとする。良い子になれなかった親だから我が子には良い人になってもらおうとする。それが親の愛情だと称する。冗談じゃない、、肝心な部分は自己責任なものだ。
  知は痛みだもの、失敗して人生ナンボなのだ。皆、下手からしか始まらないのだから…上手からの始まりという偶然を夢見てどうしますか。そんなラッキー狙いの生き方を子にさせてどうするのか…その教育かかり出る親自体が自分のラッキー狙いの生き方をしている…それに気づかない。親・大人が、悔しくても情けなくても堂々と失敗をしなくてどうするか。堂々と失敗しないから、将来の判断ができないのだ。将来どころかすぐ後の事も予測が外れてしまう。それが本教で言う『自己開闢』ということでもあるのだ。




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