(毎月発行の『連絡紙』より)

●平成30年8月号
 仕事の仕方を見ていると人は殆どが保守的な存在で、保守的な人は淘汰されるようだ。更に言えば淘汰されるのは自分自身の保守性によるもので、それは自分で個性を無視して生きようとしている事が原因だと判る。
  社内論理がある。判りやすい例では『永田町の論理』がある。永田町とは国会議事堂のある所の地名で、永田町の論理とは国会だけに通じる論理という事だ。つまり、国会は国民の思いから大きくかけ離れていて、国会議員は与野党関係なく国民目線ではない、という事を指している。
  これと同じに社内論理がある。会社の中での良いと思う事が社会に通じるはずという思い方である。がそれは大いなる錯覚である。更にはその錯覚の中に社会という目線があるのは良い方で、多くの社内論理には社会に住む人々への視線が入っていない。
  社内論理では意見が通らないと自分が否定されたと思い込む。簡単に言えば会社内で良ければそれで良しで、それが全てという事だ。だから会社の論理とは「会社だけの正義」であり「今までを肯定してからの発展」の仕事をする事という形になる。
  今までの仕事状況を変えないで仕事発展をさせようとする…あり得ない。自分が変わらないでは解決に至らないのと同様で、今までの仕事状況を変えないで新製品・新技術を開拓出来ようがない。例え実現できたとしても社会に通じるものではない。社会が会社の旧状のまま変化させたものに社会の側が合わせる事を求めるだけ…そんな物を社会に通じさせるとすれば、会社の我がままでしかない。
 社会貢献出来てこそ全ての存在意義が生まれる。これは人でも物品でも技術でも同じだ。社会の方々に喜ばれる事こそ最大の真実である事を失念して…それをして仕事だという事は自分勝手な事でしかない。お客は我が社の品物を・我が社の技術を、その社会貢献しようとする熱意を、喜び買って下さるという事をすっかり忘れている。この事が会社の論理の方々には理解できないようだ。
  お客に、いや正確に言うならば社会全体の人々に喜ばれてこそ製造したものが商品になれる。社会全体の人々に喜ばれてこそ自分としての存在が許される。それ以外はすべて我がままの実現という考えるべきだ。でも現実にはその我がままを通用させている所も多い。それを虚業という。私達はやくざを反社会的存在とか称して否定する。そして会社という社会的建物にあるだけで自分達が社会的存在だと錯覚してしまえる。だが反社会的である事はやっている事が実業であるか虚業であるかによって決まるはずだ。社会貢献ができないのに虚業に勤しんでいる会社だと判らない場合は結構と多いのだ。 
  会社とか組織は全て個人の集団である。つまり一人一人の総合力が高くあってその総合力が社会に喜ぶ方向に向けられていてこそ健全な会社である。自分の組織の健全さの見分けは簡単で、正義が組織の外つまり社会にある事を意識できる事だ。その組織の外にある正義を意識できるという事は、その正義に向かって自ら猛烈な背伸びができるという事である。正義への背伸びから言えば、周りから強制された段階で個人の総合力は実はアウトになるのだ。
  自らの手足で社会正義・社会真実を実現しようとする…それこそがストレスを学びに変える秘訣であって、要するに「生きざまの確信とその実行」なのである。生きざまを確信できていればどれほど辛くても全ては学びとなる。平たく言えば、人に喜ばれる為の根源は生きざまが基本にあるという事だ。そして人に喜ばれる事と人に媚びる事とは違う。本当に喜ばれる為には社会に対して自分の生きざまへの問いかけを猛烈に行わねばならない。社会は時として正義を間違ってしまう。自分に甘い人は社会に媚びているからそれが見えない。社会に問いかけを続ける事が実は会社の論理で生きるよりはるかに辛く、だから個人の総合力が日々大きくなって行くのだ。社会に媚びる人はそれを避け昨日と同じ自分を生きてしまう。それは現実・保守の肯定として必ず表れる。人格は日々の前向きは否定からしか高まらないのだ。




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