(毎月発行の『連絡紙』より)

●平成30年9月号
 成熟するとは極める事に似ている。究極の成熟の到達点は枯れる事を意味する。ヒトの死は必ず万人に均等に訪れ、健康であっても『老衰』で身罷るのはそういう事である。
  現代はそれを老衰とは言わず多臓器不全などと言う。老衰という節理の名を使わず、多臓器不全などという病気の名にしてしまう…言わない事が医学の思い上がりとしか思えない。老衰とは臓器が働けなくなる状態なのだから、わざわざ病名をつけて死なせる必然は無いのだ。
 ヒトは原則的には無限である。無限であるからどのように生きようとも自由である。だから個性を無視した自由な生き方もあるし、個性を基にした伸びやかな生き方もある。だがどれほどのびやかに生きても限りが生まれる。ヒトの生きて行く根本力である火事場の馬鹿力が作動しなくなる時がやがて来る。それは生老病死の最後の姿である。つまり人は生老病死という成熟という原則の中でのみ、無限なのであって、無条件で無限なのではない。
  その節理の持つ無限の中で成熟して行って、不条理が自分の中で生まれ、その不条理で個人が立ち行かなくなる…。そういう事はよくある。だがそれが節理による有限である場合は致し方がない。
 目の前の不条理に立ち行こうとする時はまだ成長段階である。結果の出る出ないはどうでも良く、火事場の馬鹿力は発揮するようにできているのだ。だからまだ節理の中での成長段階であり、、そして不条理に立ち行けなくなった現実を知らされる…その不条理に立ち行けなくなった現実は受け入れざるを得ず、それは成熟の到達点が終わった事を意味する。
  成熟は不条理へ立ち行く事ができなくなった事による諦め、不条理へ立ち行く事ができなくなった現実の受け入れから発する。現実の受け入れというが、実際は達観というべきだ。
 達観するという事は自分が変わって現実を受け入れられる、という事でもある。決して諦めることではない。何事においてもだが、諦める人は自分がそれまでのままで存在し、それまでのままの自分がいじけているだけだ。
  現実を受け入れる、ということは少なくとも大きな自己葛藤を経ねばできない事である。だから自分が変わるから、現実を受け入れ、有限である自分の今後の新しい生き方を見いだし、受け入れたという事になるのだ。
  成熟は自分の人生を見定めた結果の枯れを意味する。中には己が人生を見極める人もあるだろうが、有限の知らせは突然にやってくる。だから多くは人生を見極めるわけではなく、見定める事になる。
 
その結果として、生きる事が長さではなく濃さにある事が判る。枯れ行く事への自分への苦があり、枯れる事での周りへの苦が生まれ、枯れる事から生じる苦は精神の最大の苦となる。
 だから問題は濃さとなる。濃さが枯れから生まれている事に気づくと、生きるとは、枯れて行く自分の中身の濃さが問題という事になり、振り返ると濃く生きる為のこだわりこそが苦となり、その苦の連なりが濃さの根本だと判る。更にはその苦を濃く感じ取ることは成熟したものしか味わえないものである。
  成熟は濃さの結果として生まれるものだ。薄く生きる人にはこの苦は味わえない。その代わり、ラッキーであるかどうかだけには深く拘る。 ラッキーさにこだわったとて、自分の濃さを薄めるだけだ。長さではなく濃さが大事な事はここにある。
  真実生きたという事が濃さとなり成熟に至らせる。薄い人は苦しむ事が薄い。枯れて行く事への怖さしか生まれなくなる。濃く生きるヒトにとっては苦しんだだけ達観となって行く。それは濃く生きた事の権利の苦しみなのだ。…醒めてみれば生きるとは苦の連続なのだ。
 濃く生きるとは苦しみを強く受け入れる事と同義だ。短時間で薄い人の何倍も成熟する…。生きるとは、苦しい分、生きている安心を味わって行く事なのだ。




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