(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和元年10月号

色々な人が滝打たれにやってくる。それを側で見ていると、力のない人は丁寧にダサく打たれる。対して力のある人の多くは苦しくなると自己流になる。滝打たれは体力的に恵まれている人こそ自己流になりやすい。
  自力という言葉があるが、一般的に、力のある人は厳しくなったり苦しくなったりすると、体力任せで乗り切ろうとする。
  いや、実際に体力任せで乗り切る。だが厳しい言いかたになるが、乗り切ることができたとしても、学ぶことができなくなってしまう。学ぶべきことができなくなるとは、やっつけで終わってしまうという事である。
  滝打たれに限らずだが、やっつけでは何をやっても学べないのだ。やっつけで終わったとして、何が終るのだろうかと問いかけてみよう…すると明確に答えられる人は少ない。 明確に答えられる人は、逆に、やっつけの対応はしない。中途でリタイヤしても丁寧に言われたことをやり終えようとする。その行動の中途で断念せざるを得なくなっても、次につながるものと巡り合った事を知っている。なるほど失敗からしか学べないのが我々なのだ。
  力のある人ほど、苦くなると自己流で滝に打たれ、自己流で突破してしう。そして打たれたと思ってしまえる…但し二流にしかなれない。だ一流にも超一流にも達人にもなれない。しかも絶対に、だ。
  二流以上、つまり一芸の達人はそこの違いが判る。やったかやらなかったかの判断基準を自分で持っている。だから何を踏まえてやればやったことになるのか、そこを不明確にして行動する事はしない。逆に判らないものは自分の聞いた通りに、あるいは見た通りにやり通す。その通りにやって、やり通してもやり通せなくても、何をやるべきなのかが判る。達人は、どんな物事でもスタート台をそこに設定することができる。
 側から形だけ見ているなら、やったことは凄い事に思ってしまう。だが自己流でやり切ったことを側では理解できないし、才能ある二流以下はやり切って満足を得て、終わりにしてしまうことができる。
  あるいは、やってしまってそれで終わりにできる…それではいくら熱心にやっても、やった事にならない。それに対して学びのヒントがなければ終わっていない、と判る人は思う。
  こだわりとか目標などを定めるためのヒントを得られるのが失敗というもので、どんな達人でも専門以外は必ず失敗するものだ。それなのに、自己流でやって、やったことに満足して終われる…こだわりや目標は満足するためのものではなく学ぶためのものなのに、学びと無縁の行動に満足できてしまう不思議がある。
  満足することですべて学びが止まる。色の識別で例えると、灰色は黒に近い物から白の近い物まである。それら全てが灰色である。だから聞き手に灰色の度合いを確認せねば、共通認識にならない。共通認識に至らないでは話が解決に向かって行かない。それなのに自分勝手に灰色を定義して判ったつもりになってしまう。そして失敗に及ぶ。滝打たれの生活の言葉でいう「一切の価値観は捨ててかからむ」である。
  滝打たれに限らずだが、全ての物事には正解は存在しない。だからこそ、そこ流儀のやり方でやらないとやる意味が不明となる。そこ流儀を無視して自己流でやってしまうなら、学びは生まれない。学びに視点が定まらない人は何をやってもやっつけにしかならず、やっつけの満足を手にして終了宣言ができる。
  頑張っても頑張っても結果が出ないのは、やるべきをやっていないからだ。やったと錯覚し満足しているから、やるべきことが見えてこない。まず自己流を捨てて、そこ流儀をクリアする…クリアして違和感を覚えてこそ本当のスタートなのだ。
  その本当のスタートの時に初めてこだわりや目標が生まれ出る。だからこだわりや目標を自ら疑ってかかることになる。対して自己流の人は、こだわりや目標を守ろうとする。だから当たり前の結果にすらならないのだ。達人は自分流こだわりを持つが自己流には絶対にならないのだ。




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