(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和元年11月号

年号が令和に代わったころから高齢者の運転の誤動作による事故が多発し出した。マスコミは「高齢者の運転免許返還」が解決であって、それをまるでキャンペーンのように報道し出した。これに対して、運転免許を返還すれば過疎化の町で生活がしにくくなるという反対意見があったりして、色々な意見が出てもいた。
  しかしそうだろうか…と高齢者予備軍の筆者は思っていた。報道の中に、高齢者の交通事故がなぜ起きるのかという議論がなかったからだ。
  高齢者であっても事故を起こさない運転能力の人もいれば、若くても運転にそぐわない人もいる…多数の事故が高齢者の咄嗟の判断ミスで起きているから全てそうだ、という決めつけで話が進んでいる様に見えた。
  滝場の講話で、「思い付きだけど…」と断って筆者の考えを次の様に述べた。「逆走は高齢の問題じゃない。高齢者運転の是非に話が及んでいるが、緊張の不足した生活こそが問題じゃないか。普段が緊張しない生活でいると緊急時にパニックを起こしやすい」と。 そんな折、知人が逆走をしたという話をしてくれた。幸い事故につながらなかったが、まだ40歳になって間もない人なのである。彼曰く、自動車の運転回数が最近は少なくなっていたと言っていた。
  そこである。筆者の話と知人の話が重なったから、それが正しいとい言うのではない。だが、マスコミの独善というか独断の言いかたに多くの方が反論をしなかったことの方が危険だと思っていた。
  自分たちの緊張感の不足な生活に疑問を思わないという事は、そういう自分たちが眼中にないという事だからだ。それどころか、そういう低レベルで実質を見失っている生活を変だと感じていないという事だ。もっと言えばそれに疑問を思わないのは自分に無関心という事になる…。
  ここを判っている人が多ければマスコミのキャンペーンの様な高齢運転追放の仕方にすぐに異議が出たはずだ。そういう疑念が浮かばない事が筆者には危険だと思えたのだ。  そういう人は、緊張感のない人と同じ様にやる気のない人へ援助することが優しいと錯覚し続けるのだ。
  緊張感のない運転は土、日曜日になると見かける。40キロ制限のところを30キロで走りそれが許される。そのために難儀させられてしまう運転手も多いのだ。自分中心の運転と言うべきではないか。それを黙認する人を優しい人と言い、自分中心の運転が許される権利があると錯覚している、そんな高齢者も多い…。
  高速道路には最高速度と最低速度の定めがある。それ以外のスピードは違反行為になると記憶している。人並みの技術を求められるのに精神の弛緩した状態で臨もうとしている。
  緊張なしの安心運転を続けていると咄嗟の判断を間違うし、その対応に慌て、大事故に及ばせる。運転に限らずだが緊張があってこそ、何事も真っ当にできるのだ。…高齢だから悪いのではなく、緊張不足だから事故を起こす…。その緊張不足に気づかないのは辛い。
  この国は緊張せず心が曖昧に易くレベルの低いものを優しいと錯覚している。緊張し厳しくあってこそ妥当な成果を残せるのに、できる人に照準を合わせると優しくないと評され、緊張が欠けて妥当なことができない人を置き去りにするな、と言う。
  資格というものは全てが、スキルを維持する精神と努力があればこそである。資格を手にしたから楽できる…ではスキルは低下の一途となる。資格を取得したら緊張の場が増えるし、その緊張をマスターできねばならないものなのだ。それなのに厳しくて優しくない事だから悪だと評し、内実を伴わない事でも厳しくない事を優しいから善だと理解する…。
  この国では殆どの資格は一度取得すれば、スキルにも精神にもその後の試験がない。その結果、曖昧な資格取得者を生み出している。更には相応資格取得のための手段に学問がなっている。実質を問わないで、色々な便利を保証する…。それを優しいと考える人が結構多くおられる…このことを高齢者事故が証明した。




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