(毎月発行の『連絡紙』より)

●平成31年1月号

 行政の仕事はのんびりしてあきらめが早く、そして自分が痛みを感じない様に処理する。筆者のフェイスブックで感じた。昨秋、台風24号の時に市は避難所開設したとのメールを発信した。その時のメールの文章に筆者は物足りなさを感じて、それをフェイスブックにアップした。
 『市では自主避難所を開設しました。避難の際には食料や必要な身の回りの物を持参してください』という文章である。
 別の表現ができないものか、と筆者は思った。自主避難所だけでなく、避難勧告や避難指示に及んでも避難しない人が多くいて、ドン詰まりになって大変な騒ぎとなり、多くの死者まで出してしまう。行政のあずかり知らぬ事、で済まされない問題のはずだ。
  だから、この台風の時には早めに避難を、と国を挙げて訴えていた。最後の最後まで楽観して避難のタイミングを失するにしてもあるいは避難したいが避難先で色々と嫌な思いをするから…というのは住民の勝手な思いだ。
  だが、それでもそんな自分勝手な住民を相手に、リードして安全を高めてこそ行政なのだ。行政の思惑の通りの住民など、どこにもいない。それが判っていないから、無理やりでも住民を動かそうとできないのだ。…要するに行政として危機をどう訴えどのように早く避難所へ移動させるか、その手法が問われているのだった。
 行政の『 』のくだりは、『場所はある、来るなら自分で準備して来なさい』でしかない。住民に避難しようと思わせる気持ちやそう思わせる工夫が見えない、という事を筆者はフェイスブックで訴えた
  これに対して、一人だけ、言いにくいがと前置きして反論をした人がいた。それはそれでありがたいから筆者は「いいね」ボタンを押した。だがその論旨は、大勢が読みやすくするのにあれ以上の表現はできない、というものだった。そこだ、あの文章に違和感を覚えた筆者だが、具体的にどんな文章が良いのかわからない。だが、色々とやってみなければ正解は判らない。それを事前に色々と試行しておいて、本番に備えていてこそ行政のやるべき仕事なのだ。殊にこの人の指摘の通り不特定多数の色々な考えの人を束ねねばならない…。なのに、いきなり『これ以上は無理』…は行政だから言える特権だ。実社会の場合、通じなくても正解を・あるいはよりベターを、無理やりでも探さねばならないのだ。  …ラーメンチェーンの新しい店ができた、とする。或いはのれん分けをしてもらって、師匠と同じ味で同じ店作りだ、とする。同じ味の店のはずなのに、店同士で差がつくことは多い…それはなぜか?きっちりと原点を守ってさらに厳しく原点を磨いてゆく…そこを惰性で行うから差がつく。 
  原則を守らなければチェーン店の意味はない。だが、衰退する店は原則に対して小さな手抜きをしていて心が痛まない。客より自分の都合を優先できる段階で失格なのだ。「客に喜ばれる」がしっかり身についていないと小さな手抜きだらけ、となる。店の掃除、厨房の清潔さも大事なのに、手抜きの対象となってゆく。
  味が変わらなくても例えば熱くないものが出て来る。それに対して、忙しいからとか混んでいるからとかと理由をつける。理由などどうでも付くのだが、そこに自己都合を優先していることに気付かなくなる…。
  それでいて「味にこだわっているから大丈夫」と思う。そのこだわりの味も自分の都合で手抜きを始めるようになる。手抜きは都合悪い事ばかりに行われるのではない。良い事に対しても理由をつけて行われる。
  手抜きの理由が勝手な思いだとは思っていない。自分の思いを優先できてしまうのは良い時でも悪い時でも同じのだ。小さな手抜きをする人は自己都合を中心に行動しているからだ。そして自己都合が壊される時、まわりのせいにして限界などと言い出す。限界はどこにでも実は存在しないのだ。
 だから「やってやる」仕事になり、「させていただく」仕事ができない。この目線を養うことなく物ごとが達成できたとしても、それで終わりだ。手抜きしない自分とは「させていただく」に対する頑なさだ。…何事も自分がそのように変わってこそ成立するのだ




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