(毎月発行の『連絡紙』より)

●平成31年4月号

 私達は自分の思いに随分振り回されて生きていて、しかもそのことに気づかない。自分の中から湧いて出る思いだから、振り回されていることにすら気づかない。気づかないから自分以外が悪いと宣うのが常、であるようだ。
  醒めてみれば、何事もいつも上手くいくとは限らない。いや、うまく行かないのが常であって、思い通りになることが逆に極めてまれであることに気づく。
  それなのに、上手くゆかないことを悲惨に思うし、不幸に思う。だが繰り返すが。上手くゆかないのが普段なのである。そこに未成熟で成長途上の自分を見なくてどうするというのか…。何事もうまく行かないことをそうやって捨て去って、あるいは身につけて行こうとする…。そういうことをして処理したと考えがちのようだ。しかもそういう不幸が短時間ほどよろしいと考えるようだ。
 だが未成熟な自分を抜きに問題の解決はならない。処理した事を解決したと考える人が多くおられるが、それは処理する事と学ぶという事とは大きく違うという事を知らない事の証明である。
  何事にも言える事だが、身につけるとは、数多くの失敗を経ねばならないという事である。身につけるとは学び終えて理解できたという事でもある。
  その学びに対して、失敗をしないであるいは失敗の手間を省いて、妥当か結果に至ることはあり得ない。物事の理解は失敗体験の積み重ねからしか生まれない。
  学校でも家庭でもそういうことを子に求めない。悪いことだからやってはだめだ、という教え方をする。だが言われた子供にすれば、やってみてないので何が悪いかが判らない。約束事で悪い・良いを覚えさせられる。だから良いも悪いも確信して行うことができない。そういう大人に育ってしまう。
  そういうことを子供に強いている大人こそが経験省略という簡便な育ちをしてきて、そんな自分に疑問を持っていない…。要するに経験していないことから良いことも悪いことも予想ができないのが私たちなのだ。
  良いことも悪いことも、学びは結果として逞しさを自分の裡に培って行くものである。つまり学びとは経験であってしかも失敗する事である。
  成功を経験と言わないほうが良い。成功には痛みが残らないからだ。多く失敗した挙句に成功した場合にのみ、成功の痛みがついて回る。そういう人は失敗の痛みがあるから、成功に留まっていない。経験こそが一番大事で、多く経験することが大事なのだ。 
  数多くの失敗の度に自分の無力・ひ弱・狡さを教えられ、それを乗り越えねば何も解決しないことが身に染みる…そこでヒトは中身を鍛えられる。中身とは個人の人間力である。人間力が高まって個人が変わって、何事も初めて身につく様にできている。今までの自分のままで学び終える…はあり得ないのだが、そういう現実を多く目にするのも事実だ。 学ぶというと多くはスキルだけと考える。そして人間力に変化を来さないでもスキルを上げることはできる。効率よく結果を出せるように、スキルだけを教えるし覚える。そういうスキルの覚え方もある。
  だが人間力が高まっていない分、スキルを維持できない。或るいは自らスキルを下げてしまう。自分の都合で教えられたスキルを省略してしまえる。スキルが何のためのもので、何が必要か…それが判らないからだ。だから簡便にスキルを会得して何も思わない。当然、スキルの更なる高等化意識など意識に存在しない。自分の今を丁寧に生きなくてどうするというのだろう。
  身につけることと覚えることの違いは大きい。人間力の鍛錬を伴わない真実は空論でしかない。人間力の鍛錬が楽だったり楽しかったりするわけがない。楽だったり楽しかったりしたら人間力は存在できなくなる。
  現代は人数不足で資格社会…資格とは最低限スキルの維持を意味する。それなのに失敗を省略してスキルを与え、人間力を均一化している…。




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