(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和2年10月号

今回の新型コロナ禍で、ヒトはなぜ死んではダメなのか、もっと言えばヒトはなぜ生きねばならないのかを問わずにいる不思議がある。
  厳しい言い方になるが、なぜヒトの命は共通に尊いものと決めつけられるのか…人間同士の差別は悪いが、他の生物の命を殺しているヒトというものがなぜ議論にならないのか…。
  一様に感染を防ぐことに熱心でいるのに、なぜ新型コロナで死ぬと悪いのかを考えていないように思えた。何のための感染防止なのかが明白でなく、更に言えば明日も生きるのが当たり前に思い込んでいるようである。
  それほど命が明日も保証され、しかも同じ毎日が繰り返されると信じ込んでしまっているのはなぜだろう。
  コロナウイルスが地球の意志による人間の間引きと言うのは筆者の個人的な思いに基づく。誰もこの間引きをそうだとは言わないし、筆者もそれを証明してみようがない。証明してみても意味のない事かもしれない。
  木から下りた「人間という猿」が何十億人まで地球上で暮らすことができるのかをコロナウイルスが問うているように筆者には思えてならない。
  ルネッサンスの人間万歳という思いが十八世紀の産業革命以降、人間を含めた動物以外の無機質によるエネルギーを見出してから、人という猿は地球を壊し始めた。飛躍的に食糧生産は伸びた。この為に人類の数も飛躍的に伸びた。地球を壊す事によって大勢を養ってきた。
  食料の供給という点からすれば、本来食べ物でないものを品種改良としてと称して美味しく多量に作るようになった。美味しいが天候不順に耐えられない美味な食物品種すらも出現するようになった。
  そうやって多くの人が生存することができるようになったことは事実だ。今回のコロナ禍で四億人が死ぬだろうというのは、百十年前のスペイン風邪との対比である。百十年前では地球の総人口は十八億人と言われ、そこで一億人弱が死んだ。現代は地球の総人口が八十億人と言われていて、単純比例で四億人になっただけだ。
  だが地球は人だけが生きているのではない。動植物・微生物・病原菌もいきているのだ。その意味では地球には生物の適正規模というものがある。自然循環率というものだ。人間もこの循環率から外れて存在しない。その上、無機質エネルギーの利用による環境破壊が自然状況を壊している。明確に言えばコロナウイルスが新型になって突然変異したのは、人間の作った環境破壊によってコロナウイルスが生きて行けなくなったからだ。
  今回のコロナ禍で、感染者を人類の浅知恵で少数に防げたとして…それは人類のおごりでしかなくて、必ずいつか逆襲される。地球の適正規模は越えてはならないのだ。
  食料生産と工業生産で使う知恵がグローバル化して流通も知恵を産むようになった。だから今回の新型コロナ禍の人類の犠牲者が少数で終わったとしても(それもあり得ないように思うが)、必ずウイルスの大逆襲に遭って、人類は滅亡の危機に出会う。
  だが滅亡はしない。助かる人は必ずいる。助からないと他の生物も生きて行けなくなるからだ。大事なことは自然循環の連鎖を壊してはならない事で、醒めて見てみれば人類が他の動植物を食べても良い理由は、自然循環を守るためでしかない。これがヒトがなぜ生きねばならないのかと言う回答になってしまう。
  善行とか倫理とかの社会規範の有無で生き残るのではない。地球による人の間引きは数だけで行われよう。どんなに豊かに見えても自然エネルギーの利用ではたかが知れているのだ。
  話は飛ぶが、知覧特攻基地では特攻せよという国の意志に粛々と従った。それは表面上ではあるが、黙って従わねばならなかった。国ですら個人を抹殺する、いわんや地球は尚であると言いたいだけだ。地球上に間引き抹殺だけでなく、意志に関係しない普通の死も突然に訪れる。ヒトはいつか必ず死ぬ、あるいは今すぐ死ぬかもしれない…。死はそういうものだ。 
  高度の文明とはいうが、死を忘れてノー天気に生きてどうする…。自分を見つめて覚悟して自分を個性のままに生きることを忘れてどうする。




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