現代の価値観の間違いは家庭の在り方に見える。家庭は不完全な者同士で営んでゆくものだから、夫婦個人個人のいびつさが表れるのは必然 である。
その夫婦の在り方の多くは、「夫婦だから助けてくれる…それでこそ家庭だ」と信じ切っている事に見える。そして助けてくれない場合、冷たく愛情の無い伴侶と考える。更にはピンチを助け合う事が夫婦の愛情だと信じ込んでいる。誰が決めたか知らないが、多くはその様に信じ込んでいるようだ。不思議に思う。
夫婦であっても自分の事は自分で切り開く。昔、自分が打たれねばならないのに、夫を代わりに打たれるようにした妻がいた。代わりに来た夫は笑われ妻は呆れられた。逆に夫が打たれるのをもっと楽にとお願いに来た妻もいた。自分で切り開かねばならない事こそが人生である。どんなに端役であっても人生の主役は自分以外にいない。そこに伴侶の手助けを貰って楽に主役を終えようとする。終えられたとして、何になるというのか?。楽して良かった…は、自ら主役の人生を降りている事が不明であり、その事の証明である
なんであれ周りからの手助けは自分の確信を鈍らせ、確信すべき物事の存在を忘れさせる。確信しないでは自立に近づけないのに、自立を失念した者同士が慰め助け合う…それが夫婦を営んで行く理想であるとして疑問に思わない。その程度の事を夫婦の愛情と言う恥ずかしさに気づかない。だから伴侶の悪口を平気で言える。…悪口を言う自分の甘さ・未熟を丸出しにしているのに、だ。
そういう生き方を現代は認め受け入れてくれる。だがそれで自分は生きたと言い切れるのか…真綿にくるまっていては生きたと言えまいに。
夫婦とは伴侶がお互いに無視しても成り立ってしまう「容易ならぬ存在」だ。だから夫婦が成り立つのだ。不完全であるから無視しても一向にかまわないのだが、伴侶への無視は自分が自力で生きることの無視になる事に気づく。伴侶が大事なのではなくて、自力で生きることを自ら無視できることが恐ろしいのだ。意地を張って自分の事を自力でやり切る…それは伴侶が容易ならぬ存在と思えばこそだ。伴侶が怖くて頑張るのではない、厳として存在しているからなのだ。思うようにならない出来事の最大のものは伴侶が持ってくる。…常に伴侶こそが最大の人生の敵なのである。その敵に対して楽して通過しようとするのが私達の常である。
だが個人が目の当たりに見る風景は、本来は自分でしか見ることのできない物事なのだ。つまり自分の厳とした生き方を自ら疑うために、伴侶が持ち込む思うようにならない出来事があるのだ。この出来事に対して自分として正当な解決を行って行こうとする。だが伴侶はそれに反対をする。その反対の理由が利便の確保であればあるほど、反対をする。そこから戦いが始まる。
戦うのは伴侶であるが、真実の敵は自分の厳とした生き方の貫き方である。多くはこの段階で利便を満たして妥協する。そしてこの妥協で伴侶の主張が通った事になり、それを情けない事に夫婦の愛情の高まりと理解する…。
だから家庭が家庭の意味をなさなくなる。家庭において常に敵対するのは伴侶である。その緊張感を厳に生きる事に繋げられないのは、自力で人生を開き磨くという生きる基本ルールへ自分が甘さを持っているからだ。敵がいるから自分が厳として生きられる、生きざるを得ない。厳として生きて行く「容易ならぬもの」を磨かせるのは伴侶であるが、磨くも磨かぬも自身なのだ。
夫婦は伴侶による修行の場である。それを夫婦の情愛と呼んでも意味がない。夫婦の必然である。この必然に対して、実利的な手助けを施して夫婦の愛情と呼ぶのが現代であるようだ。人生が結婚によってゴールするという錯覚はあまりに悲しい。
自力で生きようとする為の容易ならぬ存在が伴侶…を理解できないと、子供への愛情が実利の手助けや無意味な満足になってしまい、子供の人生をもダメにしてしまう事になる。
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