(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和2年12月号

盲目の流浪の歌うたい集団があって、彼女たちは「ゴゼ」と呼ばれていた。
  今から40年以上も前の事だ。盲目で連れだって歩く彼女たちの人格を認める人は「ゴゼさ」とか「ゴゼさん」とかで呼んでいたが、「さん」付けで呼ぶ人は極めて少なく、一般に「さん」なしで呼んでいた。多くは蔑んでいるという意識もなく、無関心だったように思う。
  定住しない人々、定住したくともできない人々が40年前には少なからずおられて、見下げられる存在になっていた。何であれ現代だったら「差別」になるのだが…。
  社会保障制度が整いだしてから彼女たちは減り、今は存在していない。古代からの差別されてきた人々は数少なくなっている。人は皆平等とい時代になりつつあって、それはそれで喜ばしい事だろうが、差別が判らないと差別そのものは無くならない。
  最後のゴゼさんは「小林はる」さんと仰った。最後まで残ったゴゼさんの小林さんは人間国宝にまでなられた。小林さんの芸の評価ではなく、あるいは国は「最後の」という判断で人間国宝にしたのかもしれない…だったら極めて失礼だ。
  小林さんは人間国宝になるより、もっと普段の支援が欲しかっただろうと思う。「今度生まれるときには、虫で良いから目の見えるもので」とたびたび仰っておられだ。
 その小林さんがモデルになった映画が製作を終えた。筆者の若い時、「離れゴゼおりん」とかいうゴゼさんが主役の映画があった。確か岩下志麻という女優が主人公役を演じておられた。見もしないで言うのは恐縮だが、見る気が起きなかった。
  盲目の旅芸人を描くのではないように思えたからだ。小林さんがモデルの今回の映画では何を描かれたのかだが…、結局悲惨さがベースになろう。だが、それは現代の私達が思う悲惨さであって、小林さんが味わった悲惨さには至らない。小林さんの味わった悲惨さには及ばないし、当然に再現できまい。再現してみても、悲惨を味わっていない人には只の映像にしかなるまい。
  或いは筆者の年代が小林さんを知る一番に若い者かもしれない。筆者はその小林さんと親しくお付き合いをさせていただいた。それなのに在所を離れる時にはゴゼ歌を奉納しに教会へ来られて歌ってくださった。私みたいなものが…である。私は何をした訳ではなかったのに、だ。
  冒頭に書いたが人間国宝が「最後だから」と言う評価だったら辛い。だが小林さんの在所の方々は、冷たかった。だから筆者が主管する教会へ足を運んでくださったのだ。逆の言い方になるが、在所の方々が別れを惜しんで大々的に送って差し上げれなかったことが今でも切ない。
  それだけ昭和50年初めまで彼女たちは人権すら認められていなかった。小林さんの在所の古くからの資産家の人だけは評価をしておられた。ある意味、昭和50年代でもゴゼさんたちは、認められない身分だったと残念なことに言えてしまう。
  意識としての差別もあったが、社会の仕組みの差別も多かった。父親が身障者としての差別の下で育った筆者にすれば、社会の仕組みの差別ですら容易でなかった。就職も資格も交通法規すらも健常者万能な時代で、差別される側などでは法律自体も意識に無かった。そういった社会の仕組みの不公平を差別とすら気づかない人も多かった。
  小林さんとのエピソードは色々あるし、誰も知らないような出来事を知ってもいる。そのエピソードを明かしてみても、痛みを知らない人には通じない。痛みのない事が現代は幸せで、自らクリアせねばならない痛みを傍から指摘した場合にハラスメントと言う。 
  どこに前向きの力が生まれてくるのだろうか?前向きの力を必要としない生き方はないし、前向きに生きる事自体が自己責任なのに、それが悪い事として扱われてい本人は疑問に思わない。そんな生き方で良いというなら仕方ない。周りでとやかく言う問題でもない。…小林さんにはその都度、私が励まされてきた。



講話集トップへ戻る




トップ定例活動特別活動講話集今月の運勢@Christy