(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和2年1月号

ヒトは必ず死ぬ。だから死は不都合で未知だが受け入れざるを得ない。それなのにヒトには死を恐れ回避する本能が授かってあり、その為か永遠の命を欲する。地位のある人ほどそういう思いは強いようだ。
  死を思って臨んできたから滝打たれが続いた。滝に打たれたら願いが叶うとかご利益を授かるとか、あるいはあれだけの苦痛を耐えられたとかいう満足を求めて、筆者は滝に打たれたて来たわけではない。むしろ「死ぬかも」と思えば思うほど、滝打たれを逃げたくなかった、という事でしかなかった。生きる事に臨んで、これは良しこれは悪しという事の判断を事前にする傲慢な思いだけは持ちたくなかったからだ。
  結果、命は自分で決めても意味がない事に気づいた。簡単に言えば、命は授かるもので、自ら生きてはいるが死ぬまで生きねばならないのだ。
  ヒトは、いや命あるもの全般は命を保護して生き延びようとするシステムでできていて、そのシステムから外れる訳に行かない存在と言える。
  それなのに、外れる訳に行かない命保護のシステムが永遠に続くようにはできていないのである。詳しく言えば、命保護のシステムがいつか破綻して死ぬようにできている。ヒトを始めとして、命はその様にできている、いや作られている。
  ヒトは必ず死ぬ。どんな難病が治ったとして、ヒトは必ず死ぬ。ここを私達は錯覚している。難病が例えば奇跡が起きて治ったとして、いつかその人は別の病気で、あるいは朽ちて死ぬ。難病で死ぬことが不幸で、普通の死に方は受け入れる…という思いかたは錯覚でしかない。
  更には文明の進んだ国の人は死なないのに、発展途上の国の人は死ぬ傾向が強い。社会資本の充実によって病気にならずに済み、貧しさゆえに早く死ぬ現実がある。
  逆に皮膚病のように、文明の進んだ国の人は病気とするのに、発展途上の国の人は日常だと思う。
  医療の当たりはずれの上に命が成り立っている…そんなことがないわけではない。だが死と医療は全く別次元だ。だから死は不都合だが受け入れざるを得ないものだ。
  命の不都合とは命の不平等だ。命程不条理なものはない。不条理にできていても、必ず公平にいつか死ぬ。
  命は不平等不条理だから、死なない医療を目指す医師もおられる。病人を見れば反射的に治さねばならないと反応している医師も多い。あるいは俺が治してやる、と豪語する医師もおられる。だが一命をとりとめることができたとして、人は必ず死ぬ…この事は避けられないのである。
  一方でやみくもに死を恐れて、反射的に死を逃れようとする人も多い。死に臨んで潔くないのが死を回避するシステムを持つヒトという存在の宿命であるとしても、全ては錯覚である。存在が無くなるという事の想像とその受け入れはむつかしいとしても、錯覚に惑わされすぎる人も多いとは言える。
  死は命保持のシステムだから逃れられない。命の到達点であって、だから終わりなのだ。体験して振り返ってみようがない。それを認めようとしないから、生き方を心情的に理解して止まない。理解をする平等の楽しさなど存在していないのに、心情的な人はそれに気づこうとしない。心情的に理解をする人は楽しく生きようとする。楽しくない人生が自分らしい人生でないと考える。生まれてきたのだから楽しく生きなければならないと考える。
  いずれにしろ命は必ず果つる。のは科学法則でもそうなのだから、永遠を願いながらそこに到達できない。万物は流転継続され、流転継続されるために逞しさを増して行く…そのシステムこそが宇宙の原則なのだ。
  だから生き方を自分に問いかけねばならない。心情的理解では楽しくても自分を生きたことにならない…
  流転継続の中に身を置けば不本意であっても逃げたり選んだり躱したりは意味がないと知る。意味あらせるのは逃げず選ばず躱さずの処し方であってそれが面白く生きるという事の結果だ。楽しくとは大きく違うものなのだ。




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