(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和2年5月号

新型コロナの事を考えてみた。歴史旅から帰ったばかりだから尚の事なのだろうが、歴史の目線で今回を考えていた。
  これが平安時代だったら、多くの人がバタバタと人が死んで行っただろう、とまず思った。
  平安時代の四百年前の、奈良(大和)の東側に興っていた三輪王朝の時代、崇神という大王の時代の事だ。それまでの都だった葛城から遷都して三輪山山麓に皇居を構えた。その途端、大和の人口は半分に減った。疫病が流行ったためとある。葛城にいた人たちの恨みの疫病と解釈された。宮中にお祭りしていた天照大神も大物主という神も皇居から追い出されたが、疫病は収まらなかった。神の言葉を頼りに、神を祭る人を変えた…疫病の流行が収まった。大田田根子という人であった。田根子は出雲の血をひいていて三輪王朝とは相入れない立場だったの人だった。今も三輪山山麓に「大田田根子神社」はある。
  目を歴史から現実の世界に移すと疫病で多くの人が死んで来たと言える。思い起こせば過去、天然痘、コレラ、ペスト、結核もそうだった…。今回の新型コロナ以上にバタバタと斃れて行った。最近では大正時代のスペイン風邪がそうだった。大正時代の事であって、わずか百年ばかり前の事だ。教祖先生はこの風邪と足の傷で、障害者となられた。
  地球はこのように何百年に一度のペースで新しい病気を生み出して、生物の量を減らしている。こう言うと悪いのかもしれないが、地球というか地球を含めた宇宙は意志を持っているのかもしれない。疫病はヒトの作った文明に対して行われる宇宙・地球の最大の審判に思えてくる。あるいはそうなのかもしれない。どんな審判を下すかも、疫病を含めどんな罰を課すかも、それらを選ぶ権利は宇宙と地球にあって、その都合でヒトは取捨選択される。決して人を選んで罰を課すのではなく一律で課してくる。今回の新型コロナもあるいはそうかもしれない。
  地球が意志を持って現代文明をジャッジメントする…。宇宙や地球の意思を想像出来て、それが宇宙の意思と誤差がなくとも、その人が救われるとは限らない。恐らくだが宇宙から見れば地球も数ある星の中の一つ、そして正しい推理のできた人もその地球の中のその他大勢の一人…正も邪も宇宙や地球からすれば、何の意味もなくなる。誰にも文句を言わせないでバタバタとヒトを減らして行く…。してみると文明って何だろうと思う。
  日本の風景と言えば百人中百人が稲作の風景であると言うだろう。だが今回の歴史旅で思ったのは、稲作の風景はむしろ悪なのではないか、という事だった。
  確かに今から三千年前に稲作が始まり、稲作によって大勢の人が生きられるようになった。縄文人は田んぼのない所へ移動し移動し、した。そして田んぼの無い極寒地と田んぼにできないシラス台地に残った。そこにしか居てみようがなくなった。
  だがそこにも稲作の人たちが侵入してきた。縄文人は稲作人と混血するしかなくなった…自らを縄文人でなくすることで生き延びた。つまり稲作の風景はこの国古来の縄文の風景を消し去った。
  世界のどこでも食料が量産されるようになってヒトの数が増え、便利の達成こそ正義と思うようになった。
  その結果、便利がヒトの逞しさを奪いだした。自分の免疫力も体力も低下させていることに私達は気づかなくなっている。
  ヒトの逞しさがどんどん奪われて行って、不便にこそ自分の個性が発揮されるという精神価値が既に失念している。この精神価値とハラスメントの区別すらつかぬ人も多くなっている。
  逞しさのない文明とか学びに逞しさが無くて、何の意味があろうか。新型コロナはこの国ではピークを過ぎたようだ。新型コロナが地球規模で収まったとして、でも、地球と宇宙のヒトの文明に対するジャッジメントは続くだろう。ひとつは異常気象だし、一つは新しい疫病だ。当然に2つが複合合してくることもあろう。生き延びるのが正しいのか。それをやさしさと言ってきたがそれでよろしかったのか




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