(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和2年7月号

安倍総理が「緊急事態宣言」を行ったのは、本年4月7日の事だった。
  宣言の内容を良く聞いてみれば、今までの要請と何も変わらないようだ。ではなぜ宣言を発したのか…。ただ緊張感を高める為だという事だった。国民に対して駆け引きを使って緊張をさせる…そんなことで良いのかなあと思ったことを覚えている。
  何で大胆にできないのか、何で正直に訴えることができないのか。話の落とし所へ国民を無理やりでも引っ張って行く…だったら姑息な駆け引きではなく、心から訴える事でなければならない。国民を相手に心では馬鹿にして信用していない…思い通りの結果に導こうたって、その国民はそんなに馬鹿ではない。
  総理のその様な心根を知っていながら、国民はお互いの為になる事をしようとした…それが緊急事態宣言の内容とダブったに過ぎない。当然に総理の言葉は心に響いては来なかった。
  ヒトの移動をさせないで、目標を達成でき様があるまい。緊急事態宣言をしたら該当地域から田舎への移動が増えるだけだと思った。そして残念ながら実際にそうだった。
  宣言の終りに何が大事かと新聞記者に問われた時、総理は「外出しない事」と答えた。ヒトという存在が何も判っておられないと思った。あれだけ長く話をしておられたのに、記者の質問に対して、結論を繰り返した…その考え方が判らなかった。
  心とか価値観が今まで通りでいたら、外出しないという行動の結論に理解が行く訳がない。外出しない様にするためには何が必要で大事なのか、と言う事が質問の要旨だったはずだ。移動しないための「強い心」にどうすればなれるのか、どうすればみんなで強い心で皆が進んでゆけるのか…こそ記者の質問した大事な事じゃなかったか。平たく言うなら、強い心を持つ為には、考え方をどう変えて行けばよいのか…と言う事だった。
  この、強い心は自ら自分を強制して国の為,みんなの為に尽くすことからしか生まれない。そこを説けない総理であった。当然の帰結として、基本的人権の問題を総理自体がクリアできていない…その事の証明が記者に対する答えだったと言えよう。
  国は国しか救わない、国民の個人の救済など意識に無い。国民個人への意識があったのでは国は救えない。国を救う…に胆力をもって臨んでこそ政治じゃないか。その胆力を持ち得てこそ一流の政治家と言えたはずだ。
  個人を否定する非常事態なのに基本的人権という言葉を持ち出す…反対言葉を普通に言った総理は、すでに失格だった。実際この総理は就任以来自分の失策を逃れに逃れて至っている。国より自分に何の痛痒も感じておられないふりをし続けておられた。
  基本的人権を配慮する理由も不明なのだった。強制することが全体主義とか圧政と言われることが困る…と言う程度のものでしかなかったのだから、まったく情けない。
  当然に、新型コロナの騒ぎからの再興を旧に復する事としか考えておられないようだった。経済をいかに早く新型コロナ以前に戻すか…そうではなく新しい経済体制をどう作って行って、新型コロナ以前の経済を大きくしのげるようにするか…が再興の姿であらねばならない。それを我が国は敗戦からの復興で行ったじゃないか。それなのに、お金を出すからヒトの移動を控えて下さいだし、事業が停滞し不況なのは国のせいで金銭保証を国が行うべきだ、と国民も思っている。そんな有様では恐らくだが、新型コロナ対策は戦争になりえても革命にはならない。求められるは革命なのだ。
  諸外国の、個人の思いの実現が幸せで人生、という価値観が破綻しだしてほころびを見せている…これに気づかないと新型コロナ戦争に勝利しても意味がなくなる。大事は革命だから。
  思えば産業革命がイギリスに起きて二百五十年、生産性の向上によってヒトという猿の生き方が大きく変わってしまった。経済成長は生きる中身を深く濃くしたが、人生の中身を均一化してしまった。その価値観に革命が起きない限り、自分を表面だけ活かした挙句、生きたと錯覚してしまう人生にしてしまう。国から救ってもらおうは不要で錯覚でしかないのだ。




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