(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和2年9月号

昨年末、中国の武漢という都市で肺炎を患う人が続いた。今年1月になってそれが原因不明で日本に入ってきた。国内では大パニックとなった。
  それにしてもである。政治家も官僚もマスコミも立場保全に終始していた。重大事件なのに、はっきりと国民に対して物を言う人はいなかった。
  もちろん、正体不明の肺炎であるから明確にならない事は社会を騒がし却って混乱を増させる事にもなるからそれも判らぬではない。が6月末近くまで『俺が言うのだから、俺が責任を取るから』という決めセリフを吐ける人がいなかった。口の中でモゴモゴと言って国民を不安に陥れていた。
  この事件に関して筆者は二月の教会の厄祓い前日に「見えた」と発言していた。何も判らぬのに見えたは無いと思うだろうが、直面してからの流れでピークに近づいていると感じた。そしてこの病気の概要が見えてきた。それは子供には無害という事、感染率は極めて高いが症状は大したことがない事、基礎疾患を持っている高齢者こそが死亡しやすい事、であった。
  総合的に言えば「感染率は高いが、死亡率はむしろインフルエンザより低い」という事だった。やはりと思った。私達が異常な生活を続けてきてそれに疑問を思わないで繰り返してきたから、こういうことになったと筆者は思った。
  西洋医学は外科だけが素晴らしい。内科は東洋医学が優れている。東洋医学にはドイツ医学を含んで良い。その違いは症状を悪いものにして病気と呼ぶか、回復途中の違和感とするかである。外科の発想からすれば痛みは取り去れば治ったことになる。それは症状イコール原因だからだ。症状イコール原因とは痛い箇所こそが原因で、その原因が治るという事は痛む道理が無くなったという意味で、つまり治ったという事の意味となる。
  対する内科では症状は原因と関係しないものだ。病気の原因は症状の箇所に無い場合が殆どだ。病気の原因を取り除かねば病気も治った事にならないのだが、内科の場合は症状の箇所をいじっても治る事に関係しない。
  内科の症状は体内にたまった毒素・疲労素の排泄作業が伴わせる違和感でしかない。つまり毒素疲労素の排泄が終るまで「違和感=病気の痛み」は続くし、痛みのある場所をいじった場合には違和感が軽くなる事があっても消滅することはないのである。
  今回の新型肺炎の場合は毒素疲労素の溜まっている高齢者こそが死亡し、毒素疲労素の殆どない若年者の死亡は皆無だった。その毒素疲労素の正体こそが実は人体の外的要素である薬、正式には薬の常用なのであった。
  では薬がなぜ毒素疲労素なのか。それは薬が化学物質だからだ。薬を飲んで症状が緩和するのは痛みを無くす化学反応を起こすからだ。つまり薬は化学物質で体内の毒素疲労素を中和させるのである。この場合の化学物質は自然界にヒトが摂取しえない物質であって、摂取しえないから毒であって、摂取しえないから発汗以外では排泄がされにくいのである。体内で生じた毒素疲労素を化学物質という毒で中和するだけのことなのである。これをして痛くないから治ったと解釈する。いやいやそうではない、毒素疲労素を生んでは溜める生理機能の低下や薬という毒の排泄が行われていないのだから治っていないのだ。
  そういう状況なのに「楽になったから治った」と理解する。そういう目線を私達は持っている。そして実際に苦しいと早く楽になりたいと願う。
  話を新型肺炎に戻すが、そういった医療に疑問を持たないで来た人、あるいは疑問に思っても理に合う治療がないと思っていた薬常用者が今回の新型ウイルスに負ける結果となった。
  それが現代文明なのだろうか?。文化は不自由を喜びにして成り立つものだが、文明は不自由こそを敵にするものである様だ。殊に現代文明は理屈に合わなくても、思いが叶えば良しとしている。その表れの一つが現代文明の医療である。治っていないのに楽になったから治ったことにする…きわめて即物的であって、即物的な分だけ奥行きがない。奥行きがないとは正しくも逞しくないという事である。人は折角授かった命を目先の思いを叶える丈の人生にしてしまった。





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