(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和3年10月号

御嶽夏登拝が終わった。今年も心の揺れにいっぱい出会わせていただいた。そうやって自分の生き方の原点を確認できるのはありがたい。
  いつも思うが、修行とはある意味、没我であって、没我とは周りから強制されることである。それを大人が意図的に行えば修行となる。
  更に大人が子供に強制すれば「躾け」である。もっと言えば子はこの様な躾けを躱すことができない。親や大人が無理強いして課すからだ。
  親に褒められて子が喜ぶのは自然の心性である。子は普段から親の笑顔を見たくて精一杯背伸びする存在である。子は大人にとっての良い子になることにやぶさかでないのだ。 それでもやりたくない事や、やろうとしてもできないことがある。その無念さを子供本人が一番よくわかっている。親に褒められることがどれほど子供にとって重要な事か、各自が振り返ってみればよくわかる。
  しかし親や大人は、自分が子供だった時の事を失念してしまいがちだ。親に褒められたり、親に認められた時の思いがなぜ失念してしまうのか…不思議だが、親になった途端に我が子に色々な事を強制して行く。
 その強制事に対して子供が上手くできないと、親や社会はさらに強制を強めて行く。そんな親にとって大切なことは子が完璧にできる事であって、そのことに尽きてしまう。 
  どれだけ頑張ったかとか、どれほど努力したとかは問題ではない。できたかできなかったか、しかも完璧であったか否か…である。子供が欲しいのは、努力を認められることであって、結果の評価ではないのに、だ。あたかも我が国の学校制度の教育体制そのもの、である。
  でも、そういう逃げられない立場に親がなった時、親はいくらでもそのストレスから逃げる方策を持っている。俗な事に憂さを晴らせるのは親や大人の持つ特権であるようだ。 今から十年以上前の事だ。恒例の冬の滝打たれを部活で行っている高校チームが滝打たれにやってきた。このチームは顧問の先生から新入部員、さらには女子マネージャーまでが打たれてゆく。それがこのクラブの冬合宿で、冬合宿のテーマは「心を磨く」という事らしかった。
  珍しくその時は、父兄もやってきて、生徒同様に滝に打たれたい、と言う。「生徒がどんな気持ちになるのか知りたくて」と仰ったまでは宜しかったのだが「お揃いで褌を作って来ました」と続いた。
  我が子の思いをどこまで知ろうと思っているのか、そんなことで何が判ると言えるのか…がっくりした。
  滝打たれは子供たちと一緒に行ったと記憶しているが、子供たちはそんな親たちをどのように見ただろうか?我が子の気持ちを知りたくて…と仰っては居られたが、滝水に自ら進んで歩を向けた人は少なかった。多くはやっとの思いで辛抱我慢を行った。僅か1分間の事なのに…進んで滝に向かって行った人も途中で腰砕けであった。親達は完敗であった。
  そんな親の教育を受けて育った子供たちだが、真っ正直に向かって行く尊さを知っていた。親からではなく部活の先輩たちからだ。
  あの親たちは自分たちの町に戻ったら飲食街に出て「滝に打たれてきた」と自慢して話すのだろうと、思った。だが肝心の子供たちの心をどう理解できたのか、どうそれを飲み仲間に伝えることができたのか…大いに疑問であった。
  大人はできない事や不出来な事からのストレスを、かくのごとく誤魔化すことができる。誤魔化すから心に痛みを生まない…。心に痛みを生まないというストレスをごまかした状態から何を学ぶべると言えるのか。
  いつからそういう風に誤魔化すことができるようになったのだろう。それが大人や親であるならば、誤魔化して来た分だけ無理難題を相手に強制して行けると思っている…その相手が子供であればなおの事である。
  自分が追い詰められ躱すこともできないストレス浸けの経験…そんな経験をごまかしてきているから相手や子供を思いやることができない。逆にそういう立場になるとハラスメントと仰る…大人の罪は大きい。


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