私達は自分なりに解釈した曖昧な言葉を使っている場合が多い。しかもそういう曖昧な言葉を人生のキーワードにしている場合が多い。凡そ言葉というものは次々に深みをつけ加えられて行くもので常に曖昧なものだから、あいまいなままに使ってその精度を高めてゆくしかない。
言葉が曖昧なのは自分の成長に付随して成長するものだからだ。言葉こそその概念を疑い、そして充実させてゆくものである。自分の真実を疑わない人はそこで終わる、と筆者が言うのはそういう事だ。人は生まれたら最後、死ぬまで自分に確証を持って生きるべき存在ではあるが、確証を得るとは自分への疑いが深くなってゆくことと同義でもある。 それが確証として成立するのは、疑う範囲がその度に深く狭くなってゆくからだ。そういう厄介な行為が人の「生きる」にはついて回る。
さて私たちは「自分らしい」という言葉を使っている。この言葉を使わなくても生きては行ける…物事は考えなくても処理して行けるが、人生はどこかでこの「自分らしい」、を基準に整理して行かないと生きて行き難くなる…その為の言葉である。
それだけ人はそれぞれで個性を持って生まれてくるからで、この個性に則って自分を立ち上げて行くことが人生の実質があると言える。個性に則ってこそ自分らしい人生となる…つまり個性を離れては自分らしさがない事になる。この個性こそは授かりものである。同じ兄弟でも反応が全く違っているのは、個性の違いによるものである。
だが、その人の個性は変えても意味がない。個性は濃くするのは可だが、薄めたり無視したりすることは不可・無意味である。火事場の馬鹿力を反復させて不可能を可能にしてきた存在の猿が、木から下りた・下されたことだけで火事場の馬鹿力の連続の生き様を意図させられ、ヒトとして成立した…。ヒトという種(シュ)の進化の歴史も個人の一生の進歩も醒めてみれば、その通りとなる。
火事場の馬鹿力こそここでいう個性であろうし、反復させることで生まれるものは自分らしさと言えるのだろう。
個性は反復の際の刺激に対する反応の仕方である。更にその反応の積み重ねによって生まれ出て、その生まれ出たものが変性して行く迄が自分らしさになる。変わらぬものは反復の際の反応の仕方であり、自分らしさはどんどん変わって行く…という事になる。つまり生まれたままの個性は存在しないし、自分らしさも存在しない、という事になる。
それなのにどうした訳か「自分らしい」という事が、心に波風の立たない真っ平らな状況、を指すように思う人が多い…不思議である。これは、ヒトが火事場の馬鹿力を以て反復し自分を変化させ生き延びてきた、という事を知らない人だけが言っている屁理屈と言える。
現実がストレスだらけであるのだから心が安らぐわけなどないのだ。心は環境に反応してこそ心であって、それが火事場の馬鹿力の始まりである。ヒトの心は常に波立っているのに、真っ平らで平穏な状態の心が自分らしい、と説く…それはあり得ない。そうだとしたら心を無視するか、心を無くさねばならなくなる。
自分らしさが心の真っ平らな状況だとしたら、それはどんなストレスにも負けない心を持っていなければならない。それは対ストレスの猛烈な戦いに「慣れた」事を意味する。或いは慣れなくとも、ストレスに同化できたことを意味する。だが多くは、心が真っ平らになれるように環境に対して変化を求める。簡単に言えば、心が揺れない環境でなければ自分らしくなれない…という事になる。自分が何もストレスを蒙らないで当然にストレスと戦う事を経もしないで、それが自分らしいのだという…その認識の甘さに気づくべきだ。
ヒトは火事場の馬鹿力を以てストレスとの戦いを反復して自分を変化させ生き延びてきた。その挙句に自分らしさに至り、その自分らしさも刻刻と変化して行く。これでなければ自分らしさという永遠など存在しないのだ。
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