(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和3年12月号

昨年から人類は未曽有の危機にある…様に言われて来た。だが、ことウイルスに関しては、危機だけではなく、チャンスでもあるようだ。
  しばしば言ってきたように、果たしてこの地球という星に100億の人間が暮らして良いのだろうか…という疑問がある。人の死がありふれたことという目線でとらえられないのはどういう事なのだろう。
 死を忌避することがそれほど尊い事なのだろうか…。単に情の世界での満足でしかないのではあるまいか…ネズミは大量で生存するようになると、大勢で身投げをして死ぬと言う。そういう命の捉え方もあってしかるべきだ。
 ウイルス感染は生物に多くの死をもたらす。だが一方で生物はウイルスを活用して生き残っていく術も得て来た。ヒトがヒトではなく、それ以前の猿でもなく、もっともっと原始的な哺乳類であった時以降、これは繰り返されてきた事の様だ。
  哺乳類の遺伝情報には、過去に感染した内在性レトロウイルス遺伝子の断片が多く存在しているという。それらの内在性レトロウイルス遺伝子は哺乳類の胎盤獲得に働いた。それだけではなく、機能性の高いウイルス遺伝子と順次置き換わることができるという。 
  進化の途上で同じ機能を別の新しいウイルス遺伝子が担う機能をバトンタッチ機能がと言うらしいが、そういう機能がウイルスにはある。
  生物にとって外界の環境は常に変わっている。その中でたくましく生きていくために、我々も常に変わってきた。その原動力の少なくとも一部は、外から入ってきた遺伝子だった。そういう高い機能の遺伝子の断片が過去に感染したウイルスとして私たちの遺伝子に残っているのだ。
  つまり生命はウイルスによって進化して来た。ウイルスは生命を絶たせることもするが、途方もない反応を哺乳類にさせても来た。ウイルスとのそういう関わり合いの果てに今のヒトという猿が存在するし、ヒトという猿が存在すればこそウイルスも新しい機能を産み出し、産み出した機能性を高めて来れた、と言える。
  つまり、ウイルスとヒトという猿は犬猿の仲なのではなくて、犬猿の仲であるゆえに、そのストレスが互いに新しい機能を産み出し互いを生き延びばせて来た、と言えよう。
  私達は滝打たれを通してこのことを体験体感してきている。もちろん1回や2回打たれたくらいで、滝打たれのストレスが新しい機能を産み出せるわけがない。どんなウイルスが滝打たれの人に感染しようと、ストレスが滝打たれの人に大混乱を起こさせなければ、その人に新しい機能を生み出せるわけがない。
  今年は五輪があり、続いてパラ五輪もあった。「運動するのに運動神経が大きな要素に思われているがそうではない。繰り返しやって行くうちにその競技の達人になれる」とあるアスリートが話をされていた。健常者の競う五輪ではこの言葉が理解されにくいが、パラ五輪の選手たちを見ていると、大事なことは繰り返しであって運動神経ではないことが判る気になる。
 では繰り返すとは何回行った場合の言葉なのだろう…或いはどれほどの時間をかけた場合に使ってよい言葉なのだろう…。ヒトは共通項がない。死んだことが無いのに死ぬ気になってと言い、精一杯やってもいないのに精一杯という言葉を使う。そんな不思議さに気づかずにいる。
 嫌な事を繰り返すことで新たな能力が芽生えてくる。全ては繰り返すことで生まれ出る。運動神経のみならず、多くの能力が生まれ出て新しい能力となる。パラ五輪の選手がそれを一番に証明している。
  パラ五輪の選手たちが不可能を可能にする時に、楽しくして新しい能力を作り出せたわけではない。新しい能力がバトンタッチ機能を起こした果てに楽しくなるだけで、苦しいのには変わらないのだ。
  滝打たれの原理は火事場の馬鹿力の継続でしかない。この火事場の馬鹿力でヒトは生き続け逞しく進化して来た。安楽な状況を選ぶ事はできるが、進化も逞しさも得られない。


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