(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和3年4月号

滝打たれは2月に寒籠りが終わった。がその後が一番怖い時節である。
  ヒトの五感は目・耳・鼻・口・皮膚とあるが、その中で中心を司っているのは目だ。その五感の中心である目に雪の白い景色が映る。そのとたんに他の四感も呼応して非常事態と感じ、その非常事態に備えようとする。だから冬は何もしなくても、非常事態にスイッチオンされ、異常な力が発揮されてしまう。
  滝場の冬の最低気温は大概で、マイナス10℃位は行く。今年はマイナス6度の記録と出遭ったがマイナス11度までいった朝があった。そうなると、怖さは大いに増すが滝打たれはその割に辛くない。その様な体験をしていてその割に辛くない事も判っている、怖いのは怖い。慣れられない怖さだ。
  そんなときに自分に大声を出して気合を入れる。自分が納得するまで大声を出し続ける。納得と言うか心を決めるというか、目標を明確にするか、と言うか、自分がそうなるまで大声を出す。
  その気合の声に関してこの冬に初めて気づかされたことがある。滝打たれを三十数年やってきて、初めて気付いた事で、これをようやくと言えば宜しいのかどうなのか…ともかく気づいた。
  気合の声に二通りあるという事だ。きれいで濁りのない声を出す時があるが、多くは濁ってそして周りで聞いても恐ろし気な声になる場合が多い、という事だ。
  一概に言えないが、きれいな声の場合は形だけの滝打たれとなっている事が多い。対して恐ろし気な声の場合は結果として滝と良い勝負が出来ている…。とにかく徹底的に滝に挑んで踏ん張り通せてしまう。意図的ではないが恐ろしくそして意地悪な声となって発せられる気がするのに、だ。
  滝は不動様とも言われる。動かないから不動なのではなく、動くから動かないことが求められるのだ。初めから不動を貫くならば、そこに命の息吹は無い。動かなくてもよいのに動くから不動が求められるのであって、動く量が大きいほど、動かない量も大きいものとなる。それが不動様のイメージである。さらに言うと人を初めとした生命ある物全ての生命活動の姿でもある。つまり破壊力が強いほど、不動の力も強いという事だ。
  …話を滝打たれの気合に戻す。きれいな声も恐ろし気な声も同一人が出すことに意味がある。どちらも自分の声、という事になるが。恐ろしい声の時の方が素の自分の姿であろう…それに今回気づいたという事だ。
  この恐ろし気な声とは、自分を勇気づける声だ。勇気づけるとは、ひ弱な自分を否定するための声だ。ひ弱な自分の否定とは自分を壊すための声と言う意味になる。
  その恐ろし気な声で自分が「物の怪(もののけ)」になって行く。精いっぱい自分を吐き出した声だ。精いっぱいの自分には良い自分も悪い自分もあいまいな自分も全てが含まれている。もっと言えば良し悪し自体が意味を持たない。混沌とした、浄化される前の、毒物だらけの声となっている。そうでないと自分のすべてがさらけ出された事にはならない。良い自分だけで現実突破ができるほど現実は甘くできていない。だから、良いも悪いも全て出し尽くさねば怖さと対決できないのだ。
  自分の一切を吐き出して自分に気合を入れる。その結果、いわば物の怪の声となる。習慣で出すとか目的がはっきりしている時はきれいな大声である。きれいな声で自分が壊れる訳がない。逆に言えば、自分が異常にならなくてすむ時にしかきれいな声は出ない、という事だ。これに対して恐怖を押し返すギリギリの大声は決して透明でもきれいでもない。自分が大きく壊れる時には、なんであれ毒気が多く含まれる声になっている。その声で自分が壊われてしまう。自分に対して毒気を含んでいてその毒気が追い詰められた現実を開くのだ 
  不思議な物で毒気の強い声は、その人が現実の不具合をクリアした時には出なくなる。が永遠に出ないのではない。なぜなら不具合は永遠に生まれ出るようになっているからだ。それは100%完全は宇宙に存在しないからだが不具合には毒気の声となる。


講話集トップへ戻る




トップ定例活動特別活動講話集今月の運勢@Christy