(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和4年11月号

滝打たれ健魂のキーワードに「知は痛み」がある。これは我々健魂だけのキーワードではないかもしれない。しかし自己啓発を目指す以上は当然で正当なキーワードである。
 痛みを経てそれが積み重なって一つの理解、あるいは原理の認識に至る、という事だ。
  心に残る痛みはここで言う「痛み」には該当しない。例えばかすり傷で心に残る場合もあるが、すぐに忘れてしまうものもあるがごとくだ。心に深くいつまでも残る痛みこそ大事で、それは違和感の延長にある。 一つの理解に達するには違和感を引きずっていなければならない。違和感にどっぷりとつかっていないとそれが学びに変わらない、という事だ。違和を引きずって違和と感じなくなったころ、違和の背景を理解し出す。あるいは理解し終える。
  理解を得た途端、違和感は違和でなく日常の普段の感覚になっている。違和感から生まれた「知識」は言葉にならなくても、その違和が日常になってしまえば正解なのだ。理屈など遥か後から来るものである。言える事は、違和が日常の普段になるだけ、その分、逞しくなっている。逞しさを伴わない知は偽物、という意味はここにある。
  だから痛みは皮膚感覚の痛みだけではない。寧ろその何倍もメンタルな痛みであるのが現実だ。現代ではそれをストレスというが、メンタルな痛みを伴わないストレスなど、存在していない。風邪だって三日もひいていれば、症状によるストレスではなく、メンタルなストレスになるのだから。
  自由な発想にしか新しい知識に至れない。自由な発想が楽して生まれる事は稀だ。そういう発想は続かない。知は痛みなのだから、痛みなしで新しい発想に出くわすことはあり得ない。自己否定がその人の日常となった時に新世界の自由が生まれる丈なのだ。
 本論に入る。この精神ストレスを悪いものにしてしまう風潮に文句をいいたいのだ。何事も自分の本態が変わらねば解決にはならない。その始まりのものが「知」なのである。精神が傷まないでストレスはないし、知の基本の痛みにならないのだ。
 だが現代はストレス無しで学べて、そのようにあるべきだ、と訴える人が多い。痛みを感じて学ぶ事はハラスメントで、ハラスメントは宜しくない…というのが現代であるようだ。だがそういう事を仰る人ほど、ハラスメントを自分に与えて学ぼうとはしていない。いつまでも学校時代の延長で生きられると錯覚し、だから常にひ弱である。
  生きる方向付けが違っていると思う。今を楽しく生きて学ぶ事はあり得ない。楽しさの中にハラスメントは存在しないと思える不思議に気づこうとしない人が多すぎまいか。物事を自ら学び会得した人は、その学びがどれ程辛くても、ハラスメントこそ本当の楽しさだと確信できている。
  ヒトを傷つけずに育てようとしていて何も疑問を思わない。可愛い我が子に苦労させたくない…という不要な優しさを真実と錯誤できる親が多すぎる。それは親が自分の裡で格闘すべき「情」の問題でしかない。情の問題だから、どれほど親が楯になれたとしても意味をなさない。子供が大いに逞しくなれないからだ。逞しさは学んだ深さに比例するだけの存在なのだ。学ぶのは個人の作業で、周りが教えるものではない。『親の背を見て育つ』とは子が自ら学ぶから見る事ができる背中なのだ。翻って私達の日常生活を見てみると、ストレスの排除を便利とか幸せと混同している人は可成り多くおられる。その挙句に、便利の多さが幸せであるという、大いなる間違いをしておられて、それに気づかない。
  少なくとも個人にとっては間違いだ。生きる社会が狭い人の共通項は発想が鈍く狭いという事だからだ。鈍く狭くしなければ痛みだらけで居場所が無くなる。が、違和との接触を遠ざけていれば指示待ち人間になるしかない。指示されてから動く人は、小さな幸せの世界を手放そうとしない…。指示されて動く人に自由な発想の持ち合わせはない。自由な発想の人は、指示される前に動く。それが間違いとか正しいとかは行動の後にしか解らない。人は自ら失敗して育つ…楽して知って逞しくなる訳がない。


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