(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和4年3月号

筆者的にはオミクロン株が出現して新型コロナ感染は終焉に近いと思っている。新年早々に新潟ではある歌手の公演があって、おそらくそのせいで、だろう…。新潟県はコロナ感染者が多く出るようになり、国の蔓延防止対策県となってしまった。
  何で公的に感染防止を規定せねばならないのか筆者には判らない。財源が県に有れば国とは無関係に自由なコロナ戦略が行われただろうに。今になってでも中央官庁の移転をどこの県でも言わない・中央官庁移転を訴えて実現すれば、少しは財源にも恵まれ、独自のコロナ施策が出来ただろうに…。兎も角も新型コロナは終焉が近いと筆者は思っている。だが終焉したとして、それでめでたしめでたし…で良しと思っていない。ただウイルスが強くなって感染力が強くなったが病気の威力は小さくなって自然消滅状態になっただけではないか、ヒトの知恵が南尾役にもならなかった。それはそうだ、新型コロナから今回は何も学んでいなかったのだから。
  新型コロナという病気に関しては後年になれば、真実が出てくるだろう。医学に関わらず、科学の真実というものは10年後にしか出てこないものだ。10年後には感染防止の勝利とさえいうのだろう…だが何を学んだと言えるのだろう。何よりヒトの「生き方」への問いかけがウイルス蔓延中に全く無かった…だから10年後に真実に近い資料が纏まったとしても、ヒトが生きると言うテーマは失念したままで終わってしまうのだろう。…学ばないで終わった事にしてしまうのだからいつかもっとひどい目に遭うのは必定と言える。
  筆者を含めヒトは何でこうも浅はかに出来ていて、過ぎれば終わりにしてしまえるのだろう…と思う。そして思いは文化と文明に至り、それを考えてしまう。
  両者は似た言葉だが筆者からすれば大きく違う。文明の場合の日常とは便利さに満ちて思い通りになる事である。対して文化の場合の日常とは不便で思う様にならないものとする。便利に満ちるのが文明、不便に満ちるのが文化と言うことになる。換言すれば日方が重い通りになるのが文明、思い通りにならないのが文化、という色分けになる。
 この事を更に「非日常」という観点から言えば、思い通りにならない非日常との遭遇が文明であり、思い通りになる非日常との遭遇が文化…となって、同じ非日常という言葉なのに真逆になってしまう。
  これを病気で見れば一目瞭然に判る。痛みがないから病んでいないと解釈し思い通りの行動が出来て幸せな日常…が文明となる。痛みがどこかに有ってだから病気であって行動が制限されていることが日常になっている…が文化となる。但し、文化の場合は行動制限される事を不幸とはあまり思わないで、むしろ誇りにさえ思える場合が多いのだ。
  つまり思い通りに生きられる日常が文明で、思う通りに生きられない日常が文化と言う事になる。
  ヒトの知識は生き延びるための物だった。生き延びる為の物だったから太古は文明の文化もその別は無かった。いかにして生き続けるか、しかなかっただろうから。
  少なくとも明日は生きていられる…という状況になって、文化と文明の別が生まれた。そして明日も生きていられるという安心が知らぬ間に日常の性格に惰性を潜めさせるようになってしまった。その結果、地球上では低開発国を除いて、文明に基ずく生活を繰り返すようになってしまった。いつしか自分の思いが叶わないのは非日常の事で勝つ不幸な事と思い込むようになった。
  生きる事の本質を言えば、思い通りになる事こそレアで、それが非日常の筈だった。だが現代は思い通りにならない日常をレアとしレアだから非日常だと思っている。その癖、安心と惰性に満ちているからズバリひ弱である。
  文化には逞しさと知恵があり、文明にはひ弱さと平等意識しかない。文明人のひ弱さと平等意識を新型コロナはあざ笑っているのではないか


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