(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和4年6月号

NHKの大河ドラマは鎌倉武士団の成立と生き残りが背景である。それまで貴族の奴隷頭だった武家集団が、土地は自分のものである事を主張し、それを認めてくれる権威を武士集団の中から生み出した…それが平安貴族の終焉であるとともに、武家社会の成立を意味した…歴史はそうなっている。
  私感だが、それで武家社会は成立したようだが、武家社会とは奴隷頭が認められただけで、頭が統制をしていた農奴は関係していなかった。厳しい言い方をすれば、農奴という存在は大和の国が出来る以前から現在に至るまで続いている。そのことに私たちが気づかないだけで、気づかないように学校でも教えなかった。農奴という存在を学校で習ってはいなかったと、歴史を自習するようになって気づいた。
  兎も角も平安末期の奴隷頭は腕力を以て、箸より重いものを持たなかった貴族と対立しにかかった。平家が先に覇を握ったが、握ってからは貴族の儘に生きて支持を失った。源氏の棟梁の頼朝はそこが判っていて、武士社会を作ろうとした。そして成功したかの様になったが、それまでの貴族の所領であった農奴頭同士の争いが収まることがなかった。
  今回のテレビドラマでは戦本番になって初めて鎧兜姿になっている。どうもそれが正しいようだ。鎧兜を派手にするのは、生き残るためではなく死んで功績を残すためだった。その為に唯一一人という派手さであらねばならなかったのだ。所有した土地を守るために目立つ死に方をしたに過ぎない。それほど命懸けで守らねば認めてもらえなかったのが土地の所有であった。
  しかし所詮は奴隷頭とその元締めの将軍と平安貴族だけの争いでしかない。代々、土地を耕作させられて来た農奴は支配者が誰であろうと、どうでも良かった。
  農奴に気遣いを示し、経済的な自立を指導した武家は北条早雲を待たねばならない。農奴はそれすら意識しないで日々農業に励むだけだった。大和の国が形作られる遥か前の、稲作が始まってから農奴は土地から離れられなかった。そういう時代だが武士は農奴など目になくて、自分の土地の確保に執着した。「いざ鎌倉」とか「一所懸命」という言葉は土地の私有の為の言葉であった。
 鎌倉武士の成り立ちを長々と書いてきたが、今月は楠木正成の事を書きたいのである。 正成は鎌倉時代が終わって、足利尊氏が新たな武家の棟梁になる戦の時の人である。  鎌倉幕府は後醍醐天皇の建武の新政で終わったが、天皇や貴族は尊氏と争っていた。正成は尊氏に味方しないで天皇側に味方して戦った。尊氏派をさんざん手こずらせたが、一族五百人で二十万の尊氏軍と戦って、大いに散った。湊川の戦いであった。
  正成の特異さは戦勝しても褒賞を求めなかった事にあった。正確に言えば鎌倉武士のように土地を褒賞の対象にしなかった。正成の求めたのは、自らの氏神である「建水分(たけみくまり)神社」の階位であった。
  後醍醐天皇から授けられたこの神社の階位は鹿島香取などそうそうたる神社と同じ「正一位」であった。後に正成個人を顕彰する神社の「南木神社」が創建されたがそれは正成戦死の後の事だ。
  つまり個人の栄達とか資産とかが眼中になかった。それは、正成が散所の長だったからだ。散所とは戸籍の無い人々の意味で、なぜ散所の人達に戸籍が無いかと言えば、農奴以下の階級だったという事だ。
  いわば浮遊民だったから特定の仕事もなかった。農奴は食うや食わずだとしても逃散しない限り身分があった。だが散所の者は例えどれほど財を成しても人として扱ってもらえない。日本の国にあって日本人してみてももらえぬ存在だった。
  散所の人間は天皇制となるの前の大王制のその前からの浮遊民だった。この国を自分のものにした大王の子孫の後醍醐天皇に正成は自分の事ではなく、散所の者の身分保証を求めた…それが不可能で、氏神の身分保障を求めた。名誉を知る人だった。


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