(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和4年8月号

ヤングケアラーという言葉がブームとなっていたが、今は収まった。それが不幸のイメージになっているという社会現象だった。
  筆者が中学・高校の頃の今から50年前は、家庭の都合で進学も就職も思いに任せられない人が少なからず居られた。進路指導という言葉はあったが、何もできない生活事情が至る所にあって、思う様にならない人も結構とおられた。自分のせいで思う様にならないのではなかった。そういう社会環境だったのだ。
  高校の同級生で殆ど登校しなかったヤツもいた。テストで点を取れば単位は貰えた様だった。ヤツは単位をとって卒業できた。逆に頑張りきれなくて、自ら退学をせねばならない同級生もいた。衣食足りて高校を卒業できた奴は極めて少なかった。義務教育なのに中学すら、やっと卒業という奴もいた。
  そして70の齢を超えてみれば、みんな立派に生きている。社会的な地位?を得ていなくても、生きて来た自信は社会の上層の者?に決して負けない。生き抜いてきた重さというものが滲んで出ている。
  してみると、学問は別にして教育って何?と思う。筆者は『学ぶ事が人生』『成功しても学んでなければ意味がない』と常々言って、学びを人生の最上位にしているのだが、その学びを別の言葉で言ったら、何になるのだろう、という事だ。
  見回せば、そういう疑問を思わないのは、現実社会では上層の人達だし、一番疑問を思わないのは官僚ではないか…と思えて来る…。馬鹿でもチョンでも、金か立場があれば偉そうなことが言える…そういう人達が社会の上層にいるだけだ。だから?がつくのも当然に思えて来る。
  教育の機会均等は判るとして果たしてそれがどれほどの意味があると言うのか…、不均等の方が実際に優れた人を作ってはいまいか…。教育で社会的立場を買えたとして、それを活かす能力は買えない。話は戻るが、ヤングケアラーを不幸な言葉にする必然はあるのかと思ってしまう。
  どんな立場であれ、自分を活かせるのは、それまでの生き方の総体でしかない。身の回りの出來事に幸不幸の意味づけをするのは自分自身なのだ。幸不幸は全て比較相対である。生命という有限なもので生きている限り、絶対の存在として生きる事は出来ない。かといって自分で自分を肯定も否定もできない。できても学びは永遠なるものだから「その時の評価」にしかならない。
  本論である。人は周りとの比較・相対で生きても無意味なのである。必死で生きざるを得なかった人は判るだろうが、苦しくとも充実している事が楽しさだったという事を、それが現在の自分の生き方の大半を生み出している事も…。
  幸不幸の全ては比較相対してみる事から始まる。だが比較相対は人生の色合いでしかない。この色合いと別な所に、生きるという事が存在している。それが『絶対意識』である。
  比較相対が命の織り成す世界となる。が、だからこそ今を絶対として生きなければならないし、それは命に対する自己責任と言える。
  絶対な幸不幸は真剣に生き切る事からしか感じられない。真剣に生き切る事のみが絶対で幸せ、他は全て相対で不幸である。生き切る事は自分だけしかやれない。不遇は山ほどあるが、それは景色でしかない。不遇を懸命に生き切ろうとすれば良いのだ。すると自分の生きる絶対が見えて来る。どんなに満たされなくても、自分だけの人生にできるのだ。 気ままに生き、その結果成功しても絶対なる自分は判らない…比較相対の生き方ではそんなものにしかならない。懸命でないと、自分の存在の絶対さは不明のままだからだ。
  自分が不明なのに不幸にする。自分の存在が不明なほど比較相対し自分を不幸と感じる…自分の絶対の存在を認める事なくして言える幸不幸って何?。それは幸不幸以前に卑怯というべきだ。滝打たれはそういう卑怯を認めない。滝で言う集中とはそういう事だ。いつもその集中は滝にあざ笑われて終わるのだが


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