(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和4年9月号

行者養成学校が開かれ、筆者は滝打たれの講師で呼ばれた。だんだんと廃れて行く御嶽信仰に業を煮やし「乾坤一擲の会」と銘打っての開催だった。どこの霊山でも行者になろうとする若手が皆無に近い状況にあって、廃れて良しとする人は参加しなかった。

傍から見て言える事は、やっている人が必要と考える事と受け入れる側の必要と考える事とは大きく違うという事だ。必要だと考える人も受け入れ側どちらにも、社会貢献という意識に基づかねば意味がないのだ。
  筆者はもっと積極的に参加すべきと思うのだが、色々な行者さんが居られて、あの様な人だったら行者として存在してほしくないなあ、と思う方も少なからず居られる。同じく御嶽の登拝の継続に危機感を持っているのだが、筆者は宗教臭さをクリアする方法として、鍛錬会を提唱していたのだった。
 筆者が行っている「滝打たれ」は行者の方々の行っているそれとは大きく違う。宗教臭さを殆ど除いてある。それでもインターバルの関係上、参拝や塩や祝詞、お祓いとかがついている。それが筆者の訴える最低限の宗教臭さでだから最低限の宗教である。いわばスポーツ感覚の滝打たれである。それでも我々を宗教と見て、近づこうとしない人も多い。
  滝に限らずだが、御嶽登拝も宗教色を削っている。装束は簡略化して ただ只管に「六根清浄」と気ちがいのように怒鳴って登る。おまけにすれ違う人との握手が義務化されている。登山すれば疲れる…だからこそ、すれ違う人を気ちがいの大声と握手をして励まして登って行く…。今までの御嶽登山拝とは大違いである。周りと違っていて時間がかかっても、目的に向って自分にパワハラをする…そしてやり通せばクリアしてしまえる…鍛錬とはそういうものだろう。宗教でなくても自分と向き合えば信仰となって宗教に昇華される。
 生きるのは常に自力の事であるし、自力への集中がなれば、学べる筈のものが学べなくなる。つまり生きるとは、成功とか効率とかを色々と捨て去ると残るのは学ぶという事でしかなくなり、その学びは自分の違和感からしか生まれ出ないのだ。
 宗教的な戒律も本来は学びの為の態度でしかない。それがいつの間にやら神仏に対する自分の行うべきルーティンになってしまった。神仏に対する敬いのルーティンが、自己満足のものになっていると言えよう。
 教祖先生は密教の『印』について、「印なんか、なんでも良い。意味がないからだ。使うならどんな時でも不動の印で余る。不動の印が有効だからでなく、便宜で一つに絞っただけの事』と仰っておられた。不動の印とは我々が滝に打たれている時の印である。別の印を組んで滝に打たれたところで、安全は変わらない…。その安全を偶然で片づける事は出来ない。だが三十五年の間、年間三百回滝に打たれて無事故だったことを印の間違いから説明はできない。安全は自ら滝に恐怖すればこそ守ることが出来るのだ。
  今回の行者学校開設の行者さんは人格的に本当に立派な方だ。だから講師をお受けしたし、講師に指名された事も名誉と思えた。この行者さんは行者としての知識を全て残しておきたい…と思われていただろう。その思いの強さに筆者の心は動いた。
  祈祷を受ける人はそれが誰であれ効があれば喜ぶ…だが、いい加減な人がやって奇跡が起きても意味がない。自分をきちんと処せるお方が不明な儀式で手品もどきであっても、キチンとした人が真摯に行うから奇跡に結びつく。奇跡は自らが起こすものだからだ。醒めて眺めてみると、祈祷を受ける人が祈祷をする行者に求めるのは、行者が先ず真実なる生活の実践者である事のはずだ。真実なる生活の実践者とは、社会貢献を果たし、自分をそこに向けて日々自分を律して居られる…人である。
  今回、開校された行者さんは「乾坤一擲」と表現された。それだけ行者の目線で日々を実践している行者が減っているという事だ。あの行者さんの思いが叶ってほしい。


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