(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和5年11月号

ヒトと呼ばれる猿は経験を経てからしか考える事が出来ない。どれほど尊師の話を聞こうが貴い科学者の真実を聞こうが、聞く側は自分の今までの経験から察して行くしかない。本を読んでどれほど辻褄を合わせたとて、自分の過去の経験から大きく飛び出す訳がない。
  アインシュタインが相対性理論を発表して来日した時の記者会見で「相対性理論とはどんなものか」と質問された時に「自分がやっと判った事があなた方に判れるわけが無い」と答えた。まさにそうである。
 そういった難解な事を新聞記者が簡略した記事にして読者に提供したところで、理解できる人が世界に数人は居られただろうが、あの当時の日本に多くいるわけが無いのだ。  ヒトと言う猿は経験の産物で、過去の経験から少しづつ現実を眺めて、それを知識として積み重ねてここまで生きて来たと言える。過去の経験から飛躍した場合に空想する事が出来る訳だが、空想だって経験から全く別であり様がない。全く、過去の経験を無視した空想が生まれる訳が無い。
  そういうヒトという猿が、文字を発明し、それで主張する為に本を作り、文字を覚えた人は本を読めるようになった。経験の痛みの違いを区分けする為の文字を介して空想するようになった。
  だが空想は空想でしかない。空想がマトを得る事を科学界では発見とか真実と称している。つまり発見とは、経験からの空想が的を得ているという意味になる。要するに発見とは、個人の感性が見落としをしなかった想像という事だ。更に言えば、共通の真実とは共通の経験に基づき、その共通の経験が共通の痛みである事になる。
  それでも、共通の経験とは言うが、厳密に言えば、共通の経験による痛みとか違和感は個々で微妙に違う。共通の事を経験したとして共通の違和感には至れないのが、人と言う猿なのである。
  経験の産物なのに、それほど違和感の違いを見落としている…そんな経験をしてしまうのがヒトの共通した現実である。皆共通に五感を授かっているのに、その五感の感覚をアテにならなくしているのは、一つには経験時の熱意の差に依るし、もう一つは自分の個性の違いによる。ヒトの経験は複雑に構成されている様だ。
  当てにならない五感に対して直観という言葉がある。直観が正しい感覚だとして、それも個人の感性である。共通した直観があるとしたら、それは直観の世界ではなく、認識と呼ぶべきだ。だが、人の感性は大雑把に分ければ五感として共通しているが、厳密に見れば感性は皆それぞれである。
  それなのに、私達は学校で共通の違和感すら認めない学問という物を学ばされる。共通の違和でない場合は、理解するに容易でない…約束事として多くの違和を受け入れるしかない。それが学校教育の実体である。
  だが、その如く言い切って宜しいのか?。現代は学問が社会的な立場を獲得する中心になっているが、何の意味があると言うのだろうか…
 
それはさて、どう違って偏った違和となり、どうすれば的を得た違和に昇華できるとなるのか…が大事にせねばならない。そうでないと正しい理解に達しないからだ。ここのところを私達の殆どは考えないでいる。
  折角受けた違和を、理屈と違うから…と自分の感性を枉げて理解しようとする。個人にそれほど大差なく備わっているが微妙に違う。そこが自分を知るうえでは大事な事である。周りに合わせる必然は何もないのだ。
  自分を疑う事の大切さである。もっと言えば、経験が終わった段階で違和を発見しておくことが一番で、それが真実の学びの第一歩なのである。多くは経験が終わると、コトが終わった事にしてしまう。だが現実には、その段階で学びを失念してしまっている。真実は逆で、そこから学びが始まるのに、である。
  違う違和の答えがすぐに出る事はまず無い。だが拘りを持ち続けていれば、黒に近い白か白に近い白かの違いは見えて来る。経験し終えて終わるか、し終えて違和を探し、それに拘るか…自分を生きる上で大事な事だ。


講話集トップへ戻る




トップ定例活動特別活動講話集今月の運勢@Christy