(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和5年1月号

新型コロナも先が見えてきた。第八波の罹患者は七波より少ない予想である事でも理解できよう。このコロナ禍で世界の多くの政治は経済を救おうとするコロナ対策を取った。或いは経済の従前化を果たせなかったら、経済死の人がコロナ死の何十倍も増えたのかもしれない。でも経済を救って地球の人民が救われたと言えるか?と問うと違う気がする。 原理原則をいかに自分勝手に枉げて来たかを問わねばならない。日本人がヨーロッパナイズした生活に染まっても意味がない事に気づかねばならないのかもしれない。ヨーロッパナイズ、は満足を得る事が基本の価値観だからだ。
 蟻とキリギリスの童話の様に、キリギリスでは行き詰るのに、日本人はキリギリスになろうとしていたし、その事に気づかない様だ。
 今回のコロナ禍は日本人が蟻であったことに思いを至らせるべきだ。蟻であったから過去にウイルスと多く接触して今に至っていると言えよう。
 コロナ禍は政治より、哲学に依るリードであるべきだった。ウイズウイルスこそ正解だったと言えよう。
 蟻であればこそヒトは進化させられてきた。そしてそれが宇宙の原理なのだった。成長とか逞しさとかの原理はこれしかないのだから。コロナ禍の今回は経済を救おうとしたが、何よりも今回は軽症で済んだのだから、もっと強烈なウイルス病がいつか地球を襲うはずだ。そして否応もなく自然破壊が止まる…。
 そうやって人という猿は絶滅の危機を何度も何度も乗り越えて、それが進化を導きだして、逞しく生きて来たのだから。
 ヒトは火事場の馬鹿力があつて生き抜いてきた。ヒトは蟻であつてこそ、蟻の様に、今の満足と別であればこそ、生き延びて来たし、人たり得る事が出来たのだ。この事は滝打たれをしている人に実感で判ることだ。
 ヒトという猿は火事場の馬鹿力があって生き抜いてきた。
 例えばゴリラの様に大型の為に、生き抜くにさほど苦労しない生き物は進化しないで済む。自然界のハラスメントやいじめを苦にしない猿は進化しなかった、となる。
 ヒトという猿がアフリカで生まれてカスピ海辺りに北上した頃には、かなりの大型の猿人もいたらしい。彼らは走って動物を捕まえ殴り殺して食べていた…と。比較的に小型の類人?だったからヒトは進化せざるを得なかったし、生存が続いてきた。
 病気に対しても、今回のコロナの様に、多くの犠牲者を伴いながら、その病気を取り込んで逞しさを増してきた。多くが斃れても、生き残った少数がヒトを復活させてきた。 その生き残りの力とは、刹那まぎれに限界を超える力を自分で作り出せた事を意味した。生きる限界を意識していた訳ではないだろうが、生きるか死ぬかの状況で、逃げられない環境にいる内に、自然にハラスメントに抵抗出来る力が生まれて来てクリアしてしまったという事だ。なぜ抵抗できる力がうまれてきたにか…は判らないがそういう力が人という猿には潜んでいた様だ。
 これは滝打たれを続けている人には判る真実である。更には超一流のアスリートもハラスメントの渦中でおぼれていれば、いつかそのハラスメントを逞しくクリアしてしまう事を体現している。楽して進化は無かったと言うべきだ。進化したくて進化したのではないが…。
 それなのに現代は、無難な事を幸せと考える…。無難で便利なことが幸せでそんな幸せが存在したとしても、個人のそして人という猿の進化とは結びつかないで終わる。
 進化しないでいつか絶える…宇宙のすべては変化するように仕組まれているなだもの。ヒトという猿は環境汚染で死に絶えるより、自らがひ弱になって耐える。学びは逞しさを伴う。逞しさを伴わないものは単なる便利で、単なる便利は存在し得たとしても、その必然がないのだ。この原理を失念してどうするというのか…。

 


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