(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和5年2月号

気づかない事って多くあるもんだ。昼寝で例えれば、もう数分で夢見が終わるし夢が終わったら目が覚めれば良いのに…眠り直してみても意味が無く、時間を戻す訳にもゆかない…。
  平均寿命までに残り短くなって、気づかなかったことに気づくって、この昼寝の例えで良く判ることだ。気づかなかった自分に気づいたとして、今更取り戻せるか、取り戻して意味があるのか…ということに悩まされるのがオチだが、意味なくても、結果が出なくても取り戻そうと試みる…どうもそこに人生の核がある様に思えて来る。
  この度、人生初めての手術と入院ということを体験して、自分の人生が残り少ない事に気づかされたが、それは仕方ない事だとも気づかされた。
  その気づいても仕方無い事とは、ヒトはいずれ必ず死ぬ、という事である。いずれ死ぬのだから、死に行くための妥当な手当てをすればよいのに、完璧な健康状態に患者を持ってゆこうとする…このことは日ごろから言っている医療批判だが、手術入院して改めて思わされた。
  どんなに完璧な手術が行われても、七十歳は七十歳にしかならず、二十歳代にはなれない。ならなくて良いはずなのに、青年の健康を希求させられてしまうし、病院側でもそのごとく患者を扱う…。死ぬまで自分で用事が足せればそれで良すぎるはずなのに、それをして治ったと思い込める人は少ないようだ。
  筆者如きは、これからまだ長く生きれってかい…と、むしろ絶望が強まってしまったのに、だ。平均寿命まで生きなくて死ぬことが不幸であるという考え方もあって、それも判らない。ヒトそれぞれでしかないのに、だ。
  人生で問われべきは、数字ではなく、充実の深さなのに、数字を以て充実度を測る。自分の勝手な判断の筈なのに、比較して考えてくれる…考えてくれなくても良いのに…だ。
  話を戻すが生まれた以上ヒトは必ず死ぬ。浦島太郎の如く、長生きして老いた時に出くわした時代を理解できないのに生きねばならないのは辛かろうに…そのごとく生きても仕方ないのに、死後の世界を肯定してやまない人も居られる。
  死を意識するからこそ人生を素晴らしいものにできる。素晴らしい人生とは充実した生き方に満ちる事で、比較相対の価値ではない…。
  充実した生き方は人生を生きる時間の長短とは関係しない。生きて行く時間の長短と無関係に、ヒトはいずれ確実に死ぬ…それなのに死を避けようとするし、死を不幸だと位置づけてしまう…。そして治療なるものを受け、新たなスタートとする。
  だが醒めてみれば、病むことで死を意識して安楽な世界に逃げ込んでしまう人は、結構な数が居られると思われる。死を喜べる人にはなれなくても、死を受け入れる人には成れる。だって死は生きる必然なのだもの…死に向かってやるべきは、充実度を高め、それを幸福だと思いきることだ。
  老いて行けば病んでゆく…その時に楽して生きようとし、その楽さ加減を周りと比較しようとする…それが一体何になろうか。個人の人生の充実度は比較して決められない。それは自分の生きる熱さにしか基づかない。
  歳を取って衰えて行くのは必然ではある。が、衰えとは真実に近づく事で衰えの持つ不自由さは、自分の真実への確認作業でしかない。それなのに、医療で楽になり、自分への確認作業を怠ろうとし人生をゴマかす材料とする…。何のための老後なのだろう。
  ヒトは若かろうが高齢であろうが、やがて死ぬ。節制をし続けて便利な老後を続けることもありだし、豊かであれば自分のやるべき節制すらも買って代行できるのかもしれない。だがヒトはストレスと闘ってあるいはハラスメントの中に在って、ヒトなのである。ストレスやハラスメントと格闘したくてもいずれ格闘できなくなって行く…
 動物の世界では、そうなった時に自分が居続けた群れから離れて行く…自らではなく、置き去られる場合が多かろうが、それも動物界では摂理として扱われる…。
  生まれた以上、それが摂理である。ヒトだけが医療を受けて、その上に、看護・介護を受けて当然だと思う。いずれ死ぬのに、個人ではなく便利を追いかけ、それで幸せと言える…のか

 


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