(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和5年3月号

会はドングリの背比べで動いていて、政治家がその代表だが独創者はいない。殺害された元総理の追悼演説を野党の代表が行ったが、野党と言えども政治視線は与党と同じで、情に訴える演説だった。そして申し訳ないが国民の心を打たなかった。実に残念だった。情に訴えるだけで国民の気持ちは動くことはなかった。
  傍から見て、殺害された政治家は「ズル」をしてでも実現させる、だった。物事は妥当な所にしか落ち着かないものなのに、正しかろうが間違いであろうが、ズルをする点では独創的な政治家だったと言える。当然に公私の別は意識されていなかった。そういう世界を政治とし続けた。幼稚でも権力を握れば法律を成立させることが出来た。そのお蔭で政治は情けない程幼稚になった。
  かの氏だけでなく政治家の資質が問われている、問わざるを得なくなってしまった。ではなぜ独創的な政治家が居なくなったのか
  教育体制の間違いを誰も言わない。どなたも気づかない様だ。教科書を国が検定しているのだから独創者が生まれる訳が無いと言う考え方があるが、教科書の罪はそんなもので済まない。教科書があるから全てに疑問を持たなくなっているのだ。このことにこそ気づかなければならない。
  色々な本を読んで知識は豊富である。だが本を読んで判ったと思える事が異常な事だと思わない人が多い。だから報道されるものを疑わない、あるいは報道に乗り遅れる事を恐れる。
  何冊読んでも現実と照らし合わせを経なくては理解にならないのに、照らし合わせしないで理解したことにできる。本などは反発して読むものなのに、辻褄合わせを行い、それで理解した事にしてしまえる…それでは読んだ事にならないのに、だ。
  学ぶとは疑問と出会い、疑問の核心を知り、結果として逞しくなる事だ。それをパターン化して疑問を提示しない教科書が生まれて来ている。
  疑問や例外が書かれていないのだから教科書は本来嘘しか書いていない事になる。その嘘を教師という立場の人は懇切丁寧に説明し、間違いでないように学校では教える。教えられる側からすれば、教科書を終えるとは教科書を理解した事と捉えてしまう。絶対真実を得た…と錯覚してしまう。教科書を理解できたとすれば、本来疑問が残らねばならないのだ。
  それに加えて、テストがある。テストで高得点を得れば得るほど、理解したことになり、理解だけをするための勉強を試験勉強と錯覚して呼んでいることに気づかない。教科書に疑問を感じている時間がなくなるだけだ。つまり、疑問を持っていない度合いの調査がテスト、ということになる。
  万有引力は概ね正しいが、相対性理論から見れば間違いがある。その相対性理論も素粒子理論から見れば間違いを含んでいる…多種多様な正しさに疑問を思わせられているのが現実である。それなのに国は教科書で学問を進め一つの目線しか説明しないし、疑問を持たせないようにする。…疑問を持たせない人間を創るために教科書があると言える。 
 簡単に言えば、教科書で洗脳をしてしまう。識字率が高い事と教科書を理解する事とは大きく違うのだ。
  そういう人が実社会に出て行く。教科書で疑問を持たないように躾られ、その躾の儘に社会生活を営む結果、疑問が生まれない生活となる。目に見えているのに、聞こえているのに、疑問が起きなくなる。自分の中で疑問が起きる事が教育の筈なのに、そういうものだ、という思い方しかしなくなる。ヒトの同一パターン化となる。それに加えてヒトには集団化して安心を得る能力がある。…結果、一億総白痴になって行くばかりだ。
  人生そのものが同一パターン化していることに気づかない。誰もかれも同じパターンで生きて行く…その結果、ヒトと同じでないと人生を「生きた」と思えなくなる…比較相似による絶対の人生から遠く離れ、類似を意識させてしまう…それが教科書教育の本質になっている。
  ヒトが生きる事は独創にしかならないのに、比較類似に絶対真実があると導く。それでどこを「生きた」と言えるのか。教科書教育は恐ろしい。

 


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