(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和5年4月号

宇宙が出来たのが、約138億年前で、地球は約46億年前に誕生した。この地球に人が誕生する訳だが、その起源は700万年も遡ると言う。更に現代のホモ・サピエンスは14万年から20万年前に共通の祖先を持つという。このホモ・サピエンスは7万から5万年前にアフリカから出て移住を始め、結局ヨーロッパとアジアで既存のヒト属と置き換わったという。
  ヒトという猿が人になるのは気が遠くなるほどの膨大な時間を要していた。滝打たれを続けて来て、進化とは何かを考える事がある。進化と滅びは実は紙一重であって、滅んだ数が多いだけ進化の根源の力に近い問題である、とだけは言えるようだ。
  ヒトには火事場の馬鹿力があって右の膨大な時間を生き抜いてきた。火事場の馬鹿力こそがヒトという猿の進化の根源、と言えよう。
  例えばゴリラの様に大型で生き抜くにさほど苦労しない生き物は、食料豊かな所に居続けられる。その結果、進化しない、いや進化する必然を持たないで済んだ。ある程度小型であったためにヒトという猿は進化させられて生き延びて来たと言える。
  ヒトという猿がアフリカで生まれてカスピ海辺りに北上したのは今から7万年前という。当時のカスピ海辺りは毎日凄い風が吹く土地で毛皮の貧弱なヒト猿は天気だけでも克服が大変だったようだ。
  そんなカスピ海周辺にはかなり大型の猿人もいたらしい。大型猿人の彼らは獲物の動物を見つけると、牛の類でも馬の類でも、走って行ってそれらの動物を捕まえ、殴り殺して食べていたようだ。だから滅んだと学者は言うし、それが正解だろう。弱ければ走って行って殴り殺したりは出来ない。大型猿は自分の強さで自らの数を減らしていったようだ。逆に言えば、比較的に小型で強くない類人猿だったからヒトは進化できたと言える 。
  生きる限界を意識していた訳ではないだろうし、何万年も前にヒトという猿が逃げて行く先を知るだけの知識があった訳でもない。逃げられない環境にいる内に、辛い刺激に慣れて、慣れたために刺激に抵抗できる力が生まれて来て、生きる厳しい環境の1つをクリアしてしまったという事だ。楽した進化は無かったと言うべきだ。
  これは今回の新型コロナという病気に対しても言える。コロナに罹らないのが便利ではあるが、便利だから正しいのではないということだ。罹らない事によって将来がひ弱になってゆくからだ。罹らない事はウイルスの強さがどんどん強くなって行く…ということになる。生きる世界をヒトは選んではならない、選べばいつかウイルスがもっと強く変わり、その強いウイルスにやられてしまう事となる。
  人は生きる現場を指定できない。巡り来た現実を避ける訳には行かない。否応なしが生きる現場で実質だ。だからこそ、何十万年も生き延び、その度に逞しさを増してきたのだ。
  だが改めて考えてみると、ヒトを歴史的に見ないで今現在でヒト一代を見ても同じことを言える。生きる世界を自分で設定できるものではない。
  生まれた世界で苛め苛まれ、その苦痛に慣れ、慣れて現実を理解した後でなければ、生きる世界を設定できない。そうでない設定は間違いでしかない。
  この、慣れる、という事は大事な事で、慣れるとは逞しくなって行くという事を意味するからだ。それだけ物事を理解すると言う事は、痛みへの習慣性と逞しさを伴う事なのである。痛みがあればこそ慣れるし、逞しくなれる。痛みなしでは、慣れも学びを身に付ける事にもならないのだ。
  その意味では進化して来たヒトの何十万年間の事を、ヒト一人の一生の八十年間でクリアできるように出来ている。それなのに現代は、無難で便利な事を幸せと考える
  だが、それが幸せとだしてもそんな幸せが存在し得ても、進化には結びつかない。進化しないではいつか絶える。すべての違和感は変化するように仕組まれて存在しているのだ。
  環境汚染で死に絶えるより、自らがひ弱になって絶える。学びは逞しさを伴う、逞しさを伴わないものは単に便利で単なる便利は存在出来たとしても、その存在する必然がないのだ。


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