(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和5年5月号

滝打たれの要点は『知は痛み』と『失敗の奨励・失敗を常とする事』である。この2点を身にしみ込ませようと繰り返すのが滝「修行」である。滝打たれは単に滝打たれでしかなく滝修行とは全く違うものなのである。
  失敗の奨励であるから行動は成功したら意味がない。ヒトは成功したら失敗を知る事はしない。失敗をするから、失敗から学び、結果として正解に近づいて行く。学びにならないものの存在理由はないが、人間社会の全ては学びの対象で、換言するなら学びにならないものは人間社会に存在していない。そして学びは痛いものと決まっている。
  それなのに専門書の知識で痛みを体験せずに知識を得ようとする。痛みのない学びは人の行動を簡略化させ、その個人をも簡略化させ、分析し推理するその人の奥行すらも失わせてしまう。それは失敗こそが痛みであって、痛みこそが学ぶ()の大元だからだ。

痛みのない失敗は失敗に値しないのだから存在の対象外である。幾ら数多く失敗を得ても、痛みにならないならば失敗になっていない。だから失敗を奨励しても、その痛みを引き摺れないなら、それは失敗とは言えない。心身の痛みとなり、その痛みが日常としてあり続けることが常の失敗の姿であらねばならない。だが人間世界では引き摺る痛みを不幸と理解して早く消し去ろうとし、自ら個人をヤワな偽物に仕向けてしまう。痛みに基づく学びこそ必要なのにだ。

ヒトには失敗を略して学ぼうとする傾向がある…だが理を極めてからの行動の意味をなさないのは学校教育を見れば良く判る事だ。現代の知はそういうものが多く、行動の意味を果たさずして知を得られると多くは錯覚している。これを世界各国が受験という体制で知の数の多さを確認する…だが物事の理を幾ら多く知っていても活かせない知を得るのみで、頭でっかちの役立たずに及ぶ。それは痛みを伴わない学びだからだ。

知識偏重で学び得た知は理に到達できない不要な物なのに、それを世界中で重用して行く…。そういう役立たずの人の数が教科書教育のお蔭で圧倒的に多くなっている

知は痛みからしか得られない。知にはエネルギーが伴っていて、知るとはエネルギー量が増大する。知が数多く集まって理となった時に逞しくならないとすれば、それは知で無い事柄が多く混じっていると言う意味だ。だが、知識偏重に依る知を知とする不思議な現実がある。

知る事は行動に基づき、行動は集中して行う事でしか意味しない。知と集中とはイコールなのである。どんな状況であれ集中できる・集中しようと努力する自分を作り上げる事…それを健魂では修行と称する。滝打たれはその一環でしかない。

修行とは言うが、「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」なのである。状況を超えて集中できる事こそ痛みを正確に感じる事で、それは正しい知を得る事と同義なのである。

件の集中の度合いは自分しか判らない。集中度合いは他人が望見できるものでは無いからだ。そして自分しか判りえないから、誤魔化せたとしても意味がない。

大事な事は、集中していないとその時を生きたと言えなくなる事だ。

生きる熱量と失敗の痛みとは比例し、生きる熱量は集中の強さに比例する…。失敗の痛みと生きる熱量と集中度合いはイコールなのである。

今を疎かに生きているとは痛みと集中度と熱量が疎かである事の意味で、今をしっかりと生きれねば知に至らぬばかりか、己が生きていない事になる。このことに気づこうとしない人は結構多い様だ。

己が生きてなくて良い評価を受ける…何の意味があろう。だがそれを知るのは自分個人である。自分個人を自分は騙せない。生きる事・学ぶ事・失敗することを失念すれば自分を騙せようが、そういう嘘はついてみる価値が無い。

滝打たれがどれほど出来ても現実社会において集中した上での失敗を続けられねば意味がない。滝打たれなど誰でもできるのだ


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