(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和6年11月号

秋季参拝が無事終わった。数えて四〇回目だった。参加された方々の顔ぶれも年齢も相当に変わっておられる…そういう訳である。四〇年経過しているのだから。
  筆者は今年は不参加であった。体調がすぐれないことだもの、致し方ない。
  秋季参拝は教祖滝幸霊人がご逝去なされてから始まったもので、それまでの御嶽は遠かった。自動車で向かうなど、思えない事だった。四〇年と言う歳月の重さを思ってしまう。筆者三〇歳過ぎた頃であったし、教祖先生のご逝去は痛ましかった。
  逝去なされてその年の秋は葬儀に明け暮れて新年となった。何をどうすれば良いのか、予定すら見えなかった。でも、支えて下さる方々が居られて予定も見えて来て、どうやらそれらの全ては履行できた。
 人が死ぬってことは容易でない事であった…今思ってもそう感じてならない。
 ご逝去が昭和六〇年の九月一日の午前であった。何度もチアノーゼをおこしておられて、年齢も七七歳だったから仕方あるまいと思っていたが、アッという事だった。長生きを尊ぶ時代になっての七七歳はそれなりに頑張ったとも言えよう。短命の血筋であったから、思いの他、長生きされたともいえた。
 教団葬を終えた翌日、筆者は木曽に向かった。運転を殆どしなかった頃だったから、木曽山中までの12時間の所要は長かった。初日は三岳村村営の木曽温泉でとまった。三岳村に知り合いなぞ無く、村営の建物で泊まった。大風呂は熱く入るに時間を要した。食事は何を食べたか記憶にない。食べに行ったわけでないから当然なのだが、木曽谷に暮らす方々の価値観と言うか生活習慣の違いが気になった。
 木曽谷では誰に世話をやいてもらうでなく夜が明けた。板の間の冷たさが頭に伝わる様に思えた。天気が良かったからだ。食堂からは御嶽まで見えた。巨大な山姿だった。朝ごはんもそこそこに山中へ車を走らせた。
 とはいえ、どこに向かえば宜しいかすらも不明だった。ともかく、昨夜の電話で『田中旅館』のご主人に相談することになっていた。西の川に沿って里宮まで進み、そこから山坂を登りだした。里宮からは山中を結構な時間を車は走った。
 「こんな広大な山麓の人口は2000人に満たない方々が暮らしておられる…当時は御嶽山麓の長野県側に王滝・三岳・開田の3村しかなく、3村合わせた人口が5000人に満たなかった。新潟県で言えば阿賀の川から胎内市までに5000人と言った方が判りやすいだろうか…。
 目指す田中旅館には小さな集落を3つばかり通過して至った。小さな集落とは言うが、軒数にして3・4軒であって、小学校へ向かう子供たちがバス停でポツンと立っている…きっと通学バスを待っているのだろうが、賑やかなる程の人数ではなかった。
 「中の湯」と言う旅館の看板を通過して目指す田中旅館にいたった。
 「昨日電話でご連絡を差し上げた青木と申します」と話しだしたら女将にどなられた。 どうも前の日に連絡して…と言う事が悪かったらしい。散々絞られているさなかにご主人が顔を出されて帳場へ挙げて頂いた。当日は三岳の神社の秋祭りで、そこへ顔を出されておられたのだった様だ。この谷の開祖の子孫である良し、後日知った。
 そんなに怒っている風もなく、教祖の死去に伴って神霊場を開きたくて…と話がはじまった。
 だったら行者さんたちの籠り小屋の跡を使えば宜しいに…となった。
 それが今の神霊場である。さしてそこに3基の霊神碑を建てる事になった。翌夏までに神霊場が整った。御嶽大神は教祖が神下ろしされての字他は加藤博氏と二代目管長の字による。最初はこの3基と分骨堂から始まった。
 神霊場から眺める早朝の三岳の谷は何べん眺めても飽きる事がない。心安らぐ景色である。


講話集トップへ戻る




トップ定例活動特別活動講話集今月の運勢@Christy