(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和6年12月号

教会で歴史探訪の旅を行っている。平成の御代から始まったもので、ラッキーな事に歴史の大事に関わる土地を訪ねて来ていて、感謝感謝の思いになっている。
  最初の事は北を目指していた。多賀城市・津軽・秋田…沖縄に行ってないから不明だが遅く開けた歴史の土地柄か生産性の低かったせいか当時のことが判る土地ばかりだった。
  その後一転して、西に向かった。北陸も海は綺麗で、農業を始め家内工業などの歴史も残ってあった。敦賀などは歴史の保存が上手く行っていた。そしてここ10年以上は都の跡を訪ねている
  例えば、大和王権発祥地では怖さを感じるほどの史跡となっていた。それだけ史跡が貴重な訳である。ここで暮らす人々が、そのまた自分の何代さきからの祖先が居ついたことがはっきりと感じられると、素晴らしさを通り越して、膝が震える思いになり頭がさがってしまう。
 …それにしても、日本人は現代で何代目になるのだろう、と思う。一番古いとされる天皇家を探ってみる…神代126代で124人である。
  124人が一人10年生きたとした場合に、天皇家は1240年遡れることになる。20年とすると2480年になる。これだと、年表的には妥当な数字になるのかもしれない。万世一系のダビデの傍系が天皇家と言う学者も居られる。
  だが天皇家が万世一系とするとしたら、その先はどうなるのだろう。
  あるいは私達が見て来た九州や奈良盆地に育った人々の2480年の姿であるかもしれない。
  それにしても、敗軍の人達は根絶やしにされなくても、勝利側の奴隷にされていた…かもしれない。
  だが。戦争をして生き残った人々が天皇家の祖であろう、とは言える。その祖先が何時の頃かに日本列島に流れて来てずっと北上をして、奈良に宮城を作って国の持ち主を宣った。
  それ以降、天皇家の祖はこの国の主で在り続けたが、何時の時代からか国の事を拝む地位になった。国のヌシとは総祖先にひたすら拝み頼みこむ事だった。
  拝む力が抜群であればそうとばかりは行かなかった。当時は拝む事が宗教の全てであった。宗教と科学は現代でも分離はしていないのだから当時はそれで充分だった。
  天皇家の一族は南方の〇〇〇列島に沿って北上し、流れ着いた場所で村を営んで来て、最終的には奈良・京都に達し宮城を営んだ。
  それが弥生人の生態であった。だが弥生人にも様々な血筋があった。ヤマト族の中心である血筋が途中で北上を断念したかもしれないし、一つの血筋なのに主導権を争った事もあっただろう。そんな中で辛くも生き残った一族こそが天皇家の祖であったと言える。
  史跡の街とはそういう事である。生産の画一化とは生活の統一化とも言えた。統一される事で生産が均一化された。
  その為に日本国中で戦争も起きた。勝たねば殺されるか奴隷になるかしかなかった。その願いを神に告げる立場の最強の存在の神主が天皇家であったと言わざるを得ない。
  かくして、私達は旅行旅を毎年続けて来ている。本年は長野県の弥生遺跡を目指しているが、如何相成ることか…。長野県には面白そうな弥生遺跡が存在していないからだ。
  弥生人の生活は米作りによって非常に富んだ。それは、米と言う食糧兼貨幣を作る作業が必要とされた…水路を掘って田んぼを作らなねばならない必要があった。田さえ維持できれば多くの縄文人は生活ができた。
  だが、米作りには稲を育てる気温が必要だった。信州の高地では米を育てる為の気温が足りなかった。…つまり、長野県には弥生人の生活が限られていて、稲作にはつい」最近まで米作りに向かなかったと言える。来年は長野は難しいようだ。
  列島の北に行って、米作りの歴史に触れて学んでくるべきだ、とかんがえたりしているのだが。


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