(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和6年7月号

回りと同じ人など存在しないのに、存在していると考え、同じでない人を異端として扱う。学校がそうで、学業の評価以上に、行動の評価を重く見る場合が多い。医者でもなく、単に教師と言うだけなのに、そのような区分けが出来る不思議が学校には歴として存在している。

周りの人と同じ人が存在したらどうなるのか…それはあり得ない事だから、団体自体が中身のない物になってしまう。だがそういう団体が多いし、私達自身が周りと違う事を恐れ、忌み嫌っているのが事実だ。

現実に知的障害でもないのに、精神病にさせられる場合が多くある。要するに精神病でなく、個性の違いなのに、団体生活から外れるだけで教員はそう言う生徒を精神障害者としてしまう…精神病者はそんなことから生まれて行くようだ。

 精神病にさせられる…と言うより、精神病って本当に存在するのだろうかと言う疑問がある。精神病とは何を言うのだろうか…団体生活や他社との交流が下手なだけの場合が多いのではないか。その様に考えると知能の程度が低くたっても精神病とは言えないはずだと思う。
  それが証拠に、ほとんど精神疾患の病名が「症」なのである。つまり症状なのであって、原因は別に存在するという事を意味するのに、症を以て病気にしてしまうし、多くはそれに疑問を思わない。

我が教会へお出での人達の中にはこの「症」を患っている人も居られるが、その症をして私達は精神病と言うし、信じておられる。

現代のそういう精神病の方は行動が鈍く、生気が無くなっている。だってそういう薬を飲ませられるのだもの、

「病」ではないのに強烈な薬を処されている。それが「向精神薬」である。そして焦点の定まらぬ目となって元気を失わされてゆく。

 最初は不眠だの食欲不振だのから始まる。それを病気と言う医師も適当だが、不眠や食欲不振と言われて納得する側も凄い。凄いと言う理由は、毎日快調な体でいられることが奇跡である事を判ろうとしていないからだ。

それは病気でもなんでもなく、体調の波でしかない。簡単に言えば、休めば快調に戻るものだ。不調は体が正常に戻ろうとしてその人の意思に関係なく、休ませようとしているだけだ。だから休めば治るのに、それを異常として投薬治療に走る…そうやって精神科の病気でもないのに、精神病と言われてしまう。

 最初、多くは内科の薬で始まるのに、段々と向精神薬に変って行く…。向精神薬では異常を感じなくなる。感じさせなくする薬なのだもの。そうやって個人の光を自ら失わせてゆく…。普段の「違和があって正常」という事を意識していないからそうなるのだ。

 向精神薬で個性の偏りが治るわけが無い…。大人はそれなりに自分への責任を背負っているから、違和と付き合えなくて精神の偏りを大きくしても自己責任だ。だが将来ある子供がそうであってはならない。子供は自分の生まれ乍らの色を生きる義身がある。だが大人の社会では都合の悪い子でなければ良しの対応が絶対に多数である。大人がしっかりと、違和あってこそ普段という生活をしていれば子は精神を患う事はない。

 筆者も振り返れば「偏った子」だったし、今もそうである。人並みに出来なくとも、色々な行動をして結果として矯正されてゆく。それが生まれながらの色を社会適用させる事であるし、それをずばり言えば「学ぶ」という事に成ろう。その学びを学校では学問を教える事の遥か後に置いて…そういう偏った子供を排除してかかる。排除しても良かろうが、年相応の経験がヒトには必要なのだ。個人が刺激に異様な反応をしながら成長し、いつか慣れてその刺激を取り込み、自分の価値観にしてしまう…それが成長なのに、慣れるまでの反応の違いに親も教師も慌ててしまう

親が、大人が、気にそぐわない事を拒否して生きようとしているとそこが見えない。皆、通って来た道だし、通らねばならない道なのだ薬なしで自ら苦しんで慣れて来ただけだ

 


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