(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和6年9月号

苦はその個人の個性を決める。このことは、醒めてみれば判ることだろうが、個性が花咲くのは苦労のしみ込み方でしかない。苦労とはその人が自分の中で培って行く蓄積された苦である。苦なくして学んだとしても自分の物にはなれないし、ならない。
  だが苦を持ち続けないと自分にとっての真実に生まれ変わらない。そして何時までも苦のままでいる。原型は苦で、苦は辛い事で、だから躱すも逃げるも自由で、真正面から受けなくても良い。だがその苦は慣れてしまえるものであって、慣れを拒否していると何時までも苦痛のままでいてしまう…。
  だが現代は人生を楽しむことが優先となっている。便利さが幸せの基調となっている…現代ではそうなる。だからこそ、多くは苦から逃げようとする。
  便利さとは苦痛なく物事を自分の物にしてしまうという意味でもある。病気やケガがそうで、早く楽になりたいという一心になる。だが醒めてみれば判る事だが、満足な体で生まれてもいずれ壊れて行く。更には、人と違って生まれて来る人もいる…周りの多数と同じものを以て生きているという事は厳密に見れば極めて少ない事なのかもしれない。
  そう言いながら、廻りと違う自分を見つけると、簡単にそういう自分を否定する。廻りと同じ事は自分の中に安心を生むようなのである。
  私達は病気をするとそれが良く表れる。病気と判ると即座に薬を求める。薬を飲めば治ると信じ込める…。
  だが病気の苦しさは自分を追い詰めるのではない。そうやって異物を見出して体外に「出し尽くすまで続く」…現代の薬の多くは「その時だけ楽であれば良し」であつて、それが確実に元の健康体になるに必要な毒物排除とは関係しない。自分の中の毒物をそのままにしても楽になればそれで良しなのである。そしていつの間にかあなたも私も同じ体質になっていく…。本来同じ体質になるってことは兄弟でも少ない事なのに、病んでいる自分だけが異常な存在に思えてしまう。
 
薬をを飲めば楽になるという事に疑問を持たない不思議がある。それなのに、その事に気づこうしない。それほど痛みに弱い自分になっているのだろうか。
  外科は別にして、ないかの病気が薬で治るわけが無いし、楽になるわけでも無い。外科は万人共通の薬で効果を在らせるし、それは外科という人体の根本に余り関与しない治療分野だからだ。
  内科治療に外科治療を施せば、楽になるだけで終わる。治るとまでは行かない。内科治療は個人が逞しくならないから治ったとは言えないのだが、個人が逞しくなる事と関係しないのが現代の内科治療とずっと言える。
  無病息災という言葉があるが、現代の内科治療は「寛解」としか言えないのである。寛解とは「病気と折り合い付けた」という意味合いであって、無病になったとは言い難いのである。  さてだから五体不満足で社会に居られる人は健常者よりもずっと逞しい…。苦とか周りの人と違うものを持っているひとは、その違いを自分のものにすれば逞しくなれる…そういう個性をそれぞれに持っている。だがそれを自分のものにできないだけである。
  自分のものにするとは苦を自分の当たり前の事にして受け入れるという意味である。自分の当たり前の事とは、自分の違和に自分で慣れていくことでしかない。慣れていくのに時間を有する場合が多かろうが、違和h痛みでなく、その痛みが自分そのものになって行く事である。
  それなのに、薬を飲んで一刻も早く楽になろうとする…自分だけが辛いのではない。人間は皆辛い中をいきている。ただそれだけなのに、辛いと「自分だけが」と思ってしまうし、それを不幸に思う…。
  人は自分の体内の違和感に慣れれば済むようだ。これと同じでない苦痛はあるが健常者であるがゆえに、その苦痛は何倍にも感じて、逃げようとする。逃げないで慣れて行けば良い。戦えるのは自分しかいない、のだ。

 


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