●令和7年10月号 |
御嶽登拝が終わった。毎日自己鍛錬して行くだけなのに、御嶽登拝はこの前半戦が終わったという気にさせられてしまう。 無事登拝できて良かったと思うが、登拝が毎年厳しくなって行く…。気持ちだけでそうなるのではなく、実際にそうなのだ。「老い」をつくづくと体験してしまう。 令和7年も7月を迎える。7年は半分が過ぎたことになる。正に山が萌えるという表現がぴったりで、山麓は枝と葉を伸ばし、ずんずんと太って行く。毎年の事とは言え、地球のエネルギーの凄さに思いが至る。 毎年こうやって季節は過ぎ去り、やがて個人の命は死に至る。死ぬまでにやり通さねばならない事にオチは無いか、少しは上手くできるようになったか…と思ってみる。 個人の死に統一性のない事は素晴らしい。ある人は20歳で、又ある人は90歳で、それぞれそこまで生きて絶命する。死ぬことは平等に訪れるが、生まれてから死ぬまではそれぞれで違う。満足して生きようが不満足を以て生きようが生まれてからの時間はそれぞれだ。が、確実に「いつか死ぬ」ようになっている。 その生まれてから死ぬる迄の時間で何をやるのかやり遂げられるのか…はそれぞれである。やり遂げられずとも死は個人に訪れる。待ってくれもう少し時間をくれ、と言えるのが良いのか、半端でもそのお迎えに従順な事が良いのか、それぞれの考え方だが、死は決して都合よく個人個人に訪れないのは確かなようだ。 それでもおぎゃーと生まれたら必ず死なねばならないし、亡骸はこの国では荼毘に付されて姿を変えて行き、いつか影も形も無くなる…。繰り返すが、訪れた死に対して「待ってくれ」と言わなくて済めるように日々を生き切たいものである。 それもたかだか数十万年の事である。宇宙の気紛れで銀河系宇宙が出来、地球が出来、その地球に水と酸素とが出来て、微生物が生まれ、或る時、ヒトなる猿が出現した…事になっている。出現ものかさせられてのものか、不明である。 宇宙のほんの小さな世界である銀河系での事で、その宇宙のはてがどうなっているのか、頭の良い学者先生には判っておられる事だが、筆者にはイメージすら湧いて出ない。だが宇宙があって、そこに地球があって、ヒトが生まれ、文明社会を築いて現代に至っている。それは紛れもない真実なのだ。死んだら個人はどう消えてなくなるのか…或いは骨となりそれが粉になり地球の栄養分になるとして、その結果地球がどこまで色々な生物を養い続けられるのか…判らない、判らないけど、私たちは平然として生きている。地球を食べ尽くす事を意識しながら、食いつくすことをやめようとしないし、今のところ食い尽くしの弊害は微小なようだ。 不明な宇宙に生まれたものだもの、行き尽くさねばなるまい。地球上であっても人生をやりなおしてみようがないのだ。懸命に生きるだけのことだ。何時か果てるとして、それを想定して生きても居られない。不安定・不明快な中を堂々と真剣に歩いてこそ、生きた、と言えるのだ。 宇宙の成り立ち、その中のヒトとしての成り立ちが判ったから生き方が変わるわけではない。どれほど偉くても、からっぽでも個人は全力で生きるしかないのだ。 生き尽くすとはそういうことで、思いが叶う人は皆無に近い。皆無に近いが堂々と歩いて行く義務を持っている。思いの叶う事が大事なのではない。活きて生きて全力を尽くして、ピンチに出会っても臆せず向かって行く…臆しない事しかできなくとも、とにかく立ち向かって行くだけなのだ。 立ち向かって思う通りの結果を得ようと、立ち向かって行って完敗しようとどうでも良い事なのだ。要は立ち向かって行く事が個人それぞれに求められるのだ。泣いても吠えても立ち向かって行ければそれで良いのだ。結果を気にしても意味がない。生き続けて来た証拠なのだもの。
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