
| ●令和7年11月号 |
| 教会では歴史探訪の旅を行っている。思い返せば平成の御代に始まったもので、ラッキーな事に歴史の大事にかかわる土地を訪ねて来ていて学びが多く、感謝の思いが強い。 最初の頃は北を目指していた。多賀城、津軽、秋田…。それぞれ遅く開けた歴史の土地柄故か生産性が低かったせいか、昔の事を偲ばれる土地が多かった。 その後一転して西に向かった。北陸も海は綺麗で農業を始めとして家内工業などの史跡も多くあった。敦賀などは史跡の保存が上手く行っていた。そしてここ10年以上は都の跡を訪ねている。 例えば、大和王権発祥地は怖さを感じるほどの史跡となっていた。それだけ史跡が貴重な役割を果たしていた。そこで暮らす人々が、そのまた自分の何代先からの祖先が居ついていた事をはっきりと感じられると、素晴らしさを通り越して膝が震える思いになり頭が下がってしまう。 …それにしても、日本人は現在で何代目になるのだろう…と思う。一番古いとされる天皇家を探ってみる…神代126代で124人とある。万世一系のダビデ傍系が天皇家だと仰る学者も居られる。124人が平均して一人10年を生きたとすると天皇家は1240年遡れることになる。20年ならば2480年となり、年表的には妥当な数字になるのかもしれない。 だが天皇家が万世一系だとして、その前はどうなるのだろう。或いはそれが天皇家でなく、私たちが回って来た九州や奈良盆地に育った人々の2480年前の姿であるかもしれない。敗軍の人達は根絶やしにされたかもされなかったが、戦勝側の奴隷にされていた…例は多い様だ。 そして戦争をして勝って生き残った人々が天皇家の素であろう、とは言えるようだ。その先祖がいつの頃からに日本列島に流れて来て、ずっと北上をして、奈良に宮城を作って国の持ち主を宣った。 それ以降、天皇家はこの国の主で在り続けたが、何時の時代からか国の事を拝むようになった。国のヌシとは総祖先にひたすら拝み頼み込む立場の意味と同義になった。 拝む力が抜群であれば、そうとばかりは行かなかった。当時は拝むことが宗教の全てであった。宗教と科学とは現代でも分離していないのだから、当時はそれが限界だった。 天皇家の一族は南方の吐噶喇列島に沿って北上し、流れ着いた場所で村を営んで来て、最終的には奈良・京都に至って宮城を営んだようだ。 それが弥生人の生態であった。だが弥生人にも様々な血筋があった。ヤマト族の中心である血筋が途中で北上を断念したかもしれないし、同じ血筋なのに主導権を巡って争った事もあっただろう。そんな中で辛くも生き残った一族こそが天皇家の祖であったとは言えよう。 史跡の街とはそういう事である。生産の画一化とは生活の統一化とも言えた。その為に日本国中で戦争が起き、勝たねば殺されるか奴隷になるしかなかった。そんなお願いを神にお願いする最強の存在が天皇家であった、と言わざるを得ない。 かくして私たち歴史旅を毎年続けて来た。本年は長野県の弥生遺跡をめざしているが…如何なる事やら…。長野県には面白そうな弥生遺跡が存在していないからなのだが…。 弥生時代の生活は米を作る事で富んだ。当時の生活は米と言う食料兼貨幣を作る作業が求められていたからだ。田さえ維持できれば、それも大変な事ではあるが、多くの縄文人は生活ができ、やがて縄文人は弥生人へと変化していった。 米作りには水と共に暖かい気温が求められた。信州の高地では弥生人の生活範囲は限られていて、稲作には向いていなかった。山間地の米作りに適する気温では無かった。是はつい最近までの事だった。 そんな訳で、今年の長野探訪から学べることは少ないのかもしれない。 列島の北へ行って米作りの歴史に触れて学んでくるべきか…と思ったりもしているのだが…
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