
| ●令和7年12月号 |
| 御嶽夏登拝が終わって久しい。毎日自己鍛錬して行くだけなのに、御嶽登拝はこの年の前半戦が終わったという気にさせられてしまう。 無事登拝出来て良かったと思うが、登拝が毎年厳しくなって行く…。気持ちだけでそうなるのではなく、実際にそうなのだ「老い」をつくづくと体感してしまう。だが御嶽へ行く。 令和7年も10月を終えた。7年は半分以上が過ぎた。正に山が萌えるという表現がぴったりで、山麓は枝と葉を伸ばし、ずんずんと太って行く。毎年の事とは言え、地球のエネルギーの凄さに思いが至る 毎年こうやって季節は過ぎ去り、やがて個人の命は死に至る。死ぬまでやり通さななければならない事にオチは無いか、少しは上手くできるようになったか…と振り返って思う。 個人の死に統一性のない事は素晴らしい。ある人は20歳で、又ある人は90歳で、それぞれそこまで生きて絶命する。死ぬことは平等に訪れるが、生まれてから死ぬまではそれぞれで違う。満足して生きようが不満足を以て生きようが生まれてからの時間はそれぞれだ。が、確実に「いつか死ぬ」ようになっている。 その生まれてから死ぬる迄の時間で何をやるかやり遂げられるにか…はそれぞれである。やり遂げられずとも死は個人に訪れる。待ってくれもう少し時間をくれ、と言えるのが良いのか、半端でもそのお迎えに従順な事が良いのか、それぞれの考え方だが、死は決して個人個人に都合よく訪れないのは確かなようだ。 それでもおぎゃーと生まれたら必ず死なねばならないし、亡骸はこの国では荼毘に付されて姿を変えて行き、いつか影も形も無くなる…。繰り返すが、訪れた死に対して「待ってくれ」と言わなくて済めるように日々を生き切りたいものである。 人類はたかだか数十万年の事である。宇宙の気紛れで銀河系宇宙が出来、地球が出来、その地球に水と酸素とが出来て、微生物が生まれ、或る時、ヒトなる猿が出現した…事になっている。出現したものかさせられてのものか、不明である。 宇宙の中のほんの小さな世界である銀河系での事で、その宇宙のはてがどうなっているのか、頭の良い学者先生には判っておられる事だが、筆者にはイメージすら湧いて出ない。 だが宇宙があって、そこに地球があって、ヒトが生まれ、文明社会を築いて現代に至っている。それはまぎれもない事実なのだ。死んだら個人はどう消えてなくなるのか…或いは骨となりそれが粉になり地球の栄養分になるとして、その結果地球がどこまで色々な生物を養い続けられるのか…判らない、判らないけど、私達平然と生きている。地球を食い尽くす事を意識いながら、食いつくすことを止めようとしないし、今のところ食いつくしの弊害は微小なようだ。 不明な宇宙に生まれたのだもの、行き尽くさなばなるまい。地球上で人生はやりなおしてみようがない。懸命に生きるだけのことだ。何時か果てるとして、それを想定して生きても居られない。不安定・不明快な中を堂々と真剣に歩いてこそ、生きた、と言える様だ。 宇宙の成り立ち、その中のヒトとしての成りたちが判ったから生き方が変わるわけではない。どれほど偉くても、からっぽでも個人は全力で生きるしかないのだ。 生き尽くすとはそういうことで、思いが叶う人は皆無に近いが堂々と歩いて行く義務を持っている。思いの叶う事が大事なのではない。活きて生きて全力を尽くして、ピンチに出会っても臆せず向かって行く…臆しない事しかできなくとも、とにかく立ち向かっていくだけなのだ。 立ち向かって思う通りの結果を得ようと、立ち向かって行って完敗しようとどうでも良い事なのだ。要は立ち向かって行く事が個人それぞれに求められるのだ。泣いても吠えても立ち向かって行ければそれで良いのだ。結果を気にしても意味がない。生き続けて来た証拠なのだもの。
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