新年が明けて、面白いなあ、と思う事がある。年が明けると昨年までの問題が解決もしないのに、新しく穏やかな問題に変わってしまっている。元々、何が不正でその不正が国の行く先を誤らせている事すら消えてしまっている。
考えてみれば政治家をはじめとした御偉いさん達が悪事をとり行って、この国の経済は右肩上がりなのだから、これが悪事を取り込まなかったらどれほどの右肩上がりを示すことができるだろう…でも政治家と実業家は肩組み合って、自分達だけ御利益に預かろうとしたところで、この程度なのだから更に右肩上がりになっても意味がないのかもしれない。さすが政治家と宗教団体の関係である。何べん関係を断とうとしても、曰く「勝手に応援をしてくれている」事となる。不思議な事に、不正が判明したから、自分に投票すないで下さいとか、選挙無効にして下さいとかにはならない。
正月休みの為の安作りのテレビ番組を見ている間に、それらの不正が薄まっていく。関係の先生も自分の罪を忘れ去ってしまうようだ。それほど正月の安番組は物事を失念させる力を持っているよう…とは言えるようだ。
だが、そうやってクリーンな政治家ばかりを言っていると、政治の本体を見失ってしまう。品行方正であれば政治が正しい姿である、とばかり言えるのではない様だもの。
政治的に良い事と悪い事との違いはどこにあるなか…と言う事だ。悪い政治であつても、正月三が日は多めにみてくれる…と政治家先生も思ってくださっておられる様だ。
社会常識の裏を潜って三権分立なぞと言うが、どこの国でも司法権がよわすぎるのではあるまいか。司法権が際立って強くて、そこから司法の力で一挙に裁判で処分が決まる…という国は聞いたことがない。
現実は色々と、理屈をつけて司法権が常識を踏まえた判断をする…と言う事のようだ。
それだから三権分立は民主主義の基本となっていられる。どこぞの宗教団体の信者であっても、、行政・立法の三権を掌握出来てはいないし、掌握しても意味がないのだ。
手を焼かせられる団体が自分たちの行動の邪魔をばかりしている…現代の社会はそういう三すくみになる存在が居てくれて、まともに機能し動けるようだ。
三権分立とは言うが立法・行政・司法の三権がそれぞれに健全であったら、この国は極めてギスギスそたものになる。三権はいがみ合い、争いをして逞しくなっていく…。三権の内一権だけが強くたっても意味がない…。
我が国はそんな事で、先の大戦で敗れたばかりで世界の先端を行く国となった。その様にならせられた。それは我が国だけの期した事ではなかった。世界の流れの趨勢によってなってしまった。
なったからと言って犯罪が無くなった訳ではない。寧ろ後進国の様に小さい犯罪が渦巻くわけでもなく、関係する人を殺して終わる訳ではない。犯罪を犯すための手段が文明に関係しているだけで、「なるほどそういう手段があったか」となる。先進国こそ大胆で奇抜な殺傷事件が起きて行く。
ただ、言えるのは、文明が開けるにしたがって、綺麗な犯罪がおきなくなる…子の事は事実のようで、大量虐殺は文明の高度化に比例してしまう様だ。
一つの国の人口が総出で戦争をしても大した戦死者すら出なかったのはつい最近の事だ。それを傷ましく思ったかどうかは別の事で、それでも少ない戦死者は少ない国民から丁重に葬られて来た。戦争だもの、それで当たり前…と言えば返す言葉が見いだせない…。当たり前だから多くの戦傷者が出るまで戦争停止…とはならない。戦勝側にも敗戦側にも死者の数が増えたと認められないと戦争は休止に至らない。もっと犠牲者の少ないうちに…は無い様だ。
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