●令和7年7月号 |
教会では歴史探訪の旅を行っている。平成の御代から始まり年1回で、ラッキーな事に歴史の大事に関わる土地を訪ねて来た。それぞれの幸運さに強い感謝の思いになっている。 最初の頃は北を目指していた。多賀城市・津軽、秋田…。沖縄には行ってないから不明だが遅く開けた歴史の土地柄故か生産性の低かった故か当時の事が判る土地ばかりだった。 その後一転して西にむかった。北陸も海は綺麗で、農業を始め家内工業などの史跡も残ってあった。敦賀などは史跡の保存が上手く行っていた。そしてここ10年以上は都の跡を訪ねている。 例えば、大和王権発祥地では怖さを感じるほどに史跡となっていた。それだけ史跡が貴重な訳である。ここで暮らす人々が、そのまた自分の何代さきからの祖先が居ついていたことがはっきりと感じられると素晴らしさを通り越して、膝が震える思いになり、頭がさがってしまう。 …それにしても、日本人は現代で何代目になるのだろうと思う。一番古いとされる天皇家を探ってみる…神代126代で124人である。 124人が平均して一人10年間生きたとした場合に、天皇家は1240年遡れることになる。20年とすると2480年になる。これだと、年表的には妥当な数字になるのかもしれない。万世一系としたら、その先はどうなるのだろう、と思う。或いは私達が見て来た九州や奈良盆地に育った人々の2480年の姿であるかもしれない。 それに、敗軍の人達は根絶やしにされなくても、戦勝側の奴隷にされていた…かもしれない。 だが、戦争をして勝って生き残った人々が天皇家の祖であろう、とは言える。その祖先が何時の頃かに日本列島に流れて来てずっと北上をして、奈良に宮城を作って国の持ち主を宣うた。 それ以降、天皇家の祖はこの国のヌシであり続けたが、何時の時代からか国の事を拝む地位になった。国のヌシとは総祖先にひたすら拝み頼み込む意味となった。 拝む力が抜群であればそうとばかりは言えなかった。当時は拝む事が宗教の全てであった。宗教と科学は現代でも分離はしていないのだから、当時はそれで充分だった。 天皇家の一族は南方んの吐?喇列島に沿って北上し、流れ着いた場所で村を営んで来て、最終的には奈良・京都に達し宮城を営んだ。 それが弥生人の生態であった。だが、弥生人にも様々な血筋があった。ヤマト族の中心である血筋が途中で北上を断念したかもしれないし、一つの血筋なのに主導権を争った事もあっただろう。そんな中で辛くも生き残った一族こそが天皇家の祖であったと言える。 史跡の街とはそういう事である。生産の画一化とは生活の統一化とも言えた。統一される事で生産が均一化された。
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