(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和7年8月号
 御嶽夏登拝が近くなってきた。7月も11・12日と霊神碑の清掃に行って来た。木曽地方は流れる川の作りだした谷以外は一面の高原である。そんな緑の中を進むのは何とも快い。
 教祖先生が物故されてから35年が経つ。35年前は神霊場を開く為に、木曽へ通った。通ったと言うほど頻繁ではないが、ともかく霊神碑を3基とそれを建てる石垣を積んで先ずは地ならしが必要だった。
 霊神碑は3基が必要だった。この3基が祀られる事で私達はその信仰の対象を意識出来るのだった。
 建てたと言っても、筆者が建てた訳でなく、地元の石材屋さんが作業をしてくださった。この石屋さんが作業をしてくださった。この石材屋さんは木曽の黒沢の谷を登りだした「屋敷野」と言う集落にあった。全然知り合いもない黒沢の谷に霊神碑を建てよう、と言うのだから、土地が定まったらお任せの方が宜しかろうと、お願いした。
 物故した後に霊神碑を建立したのだが、その台字は、中央の御嶽大神は教祖先生が退院をなされた時に神がかって書かれた字である。神がかりの状態で、『急に筆を出せ、大きな筆だ』と言われ、準備のない状態で困った。何しろ神がかりは何分間もできない。手早くやらねば神がかられた人の身体がもたない。幸い埃まみれの大筆があったので、それに墨汁を付けて渡した記憶がある。
 神かかった人を長時間放っておけば、酸欠を起こす…そこまで教祖に霊が憑くことをさせてはならない…だがどうやって霊に去ってもらうべきか、判断がつかなかった。…幸い筆も古くてもあったし、墨汁はいつも使っていた。どさくさ紛れだが、今思ってもあの時間で墨汁の準備ができたなあと思っている。
 始まったら終る迄、見守るしかないのだから…時間が短く終わって良かった…と今も思う。憑いた霊に存分に居ついてもらったら、大先生は絶命したのかもしれない。
 終わってテープレコーダーを止めて再生したら、教祖先生の声が健康な状態から、息が絶えそうな声に替わって行くのが判った。筆者はとんでもない殺人を犯すところだった…或いは途中で憑いた霊が去ってゆくことになったのだろうか…今もって怖かったと思う。
 教祖曰く「早く神霊が昇ってくれてよかった」と息絶え絶えに仰っておられた…何しろ曲がらぬ右手で、墨汁をどこまで筆に吸い込ませたのかすらが確認できない状態だった。筆者がしゃしゃり出て、何であれ神下ろしを終わらせたらどうなったのだろう。咄嗟の判断と言う物は、あの判断で良かったのだろうか。あの時、教祖が逝去する事は考えられたのだ。
 …そうゆう教祖だった。特異な霊に憑かれているのだから、色々な事に目につくことが沢山にあった。
 それが例えば人間中心の物の見方であっても、目の前におきているのだから違うとも言えないし言ってみたとて意味もない。現実こそ正しいのだし、だからどんな変わった事でも『先ず、ありき』から対応せねばならないと思っていた。
 言える事は、ヒトの味方ををする霊は3流4流の力しかないという事だ。どれ程、切なくて嫌な事でも、堂々と前に進んで行かねばならない。自分がらくをして、神霊に難儀をかけて、物事がクリアできたたして…それはそのヒト個人のクリアでしかなく、社会的には意味のない否定されるべき物事なのだ。
 どれほど切なくても苦しくても、前を見て堂々と進んでゆくしかないのだ。進んでいないようでも、いつか大きな自信となって身に蓄えがなって行く…。それはだから楽になるのではない、相変わらず苦しいがそれが生きる事だ気づく。
 勝とうが負けようが、逃げず躱さず真っ向から向かっていく。嵐が過ぎ去った時、自分の中に逃げずにいた事の誇りが生まれている。物事の終焉とは自分の思いが形になる事ではない…気づくと強風も防風も必需の当たり前の世界と思っている自分になっている…。風が吹いていることが日常の当たり前になってしまう…解決とはそういう事のようだ。




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