(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和8年2月号
 新年が明けて1ヶ月になろうとしている。毎年の事だが、やはり新年はゲンを担ぐ、ゲンを担いでも良い年にしたいというおもいも出て来る。だが思いが満ちるだけで、実際は何も起こらない…それが常である。
 さて筆者の年賀状、近年の若者にはウケない。どうにも面倒なことのようだ。一年間、面倒を見てください、という文面なのだから、科学的な根拠に基づいていない。そんなことに手間をかけているより、面会してそれを言えばよいではないか…と思うことはありだ。だが面会をして。そう願っております…はなかなか言いにくい事だし、要らぬおせっかいに思われてしまう。
 大事なことを言葉で表して喜ばれるじだいではないらしい。今年が幸せであれ不幸であれ、こっちの問題で、あなた様に心配をかけるつもりはありません…なのだ。
 この年賀状も近年大分交わされなくなってきているようだ。なんで年賀を寿ぎ合わねばならないのか…それすら明確でなくなってきている。単に正月行事にしてしまってよいのか…大いに疑問に思ってしまう。だがそのような正月行事が年ごとに減ってきているようだ。
 『お正月には凧揚げて駒を回して遊びましょ…と歌詞にあるが凧揚げはやるほど電機工事屋さんに叱られる。凧が電線に引っかかったら大事になる。駒回しもやる場所が減ってきているし、新潟のような降雪地では雪が降ったら駒を回せない。筆者などは職業柄、お祓いに回る。新年が良き年であるように、家々を清めてゆく。お祓いの祝詞を読んで家が清まるのか、清まって何をするのか…それは本人の思い方による。
正月行事は現実には新年を清める…という事になっているようだ。餅を食べて祝うことと同じで、それを情緒に問題にするのか、あるいはどうでもよい問題にするのか、家それぞれの問題になっている。
 一方では正月料理が手作りでなくなって来つつある。その料理を作るお母さんにすれば煩わしい問題である。子供たちに正月料理の上手下手が吟味される。料理下手はやはり主張しにくいようだ。
 例えば旦那の母親の作った「ノッペ」の程よい味であっても、旦那のお母さんもそういう道をあゆんできて、今の味になっているのだ。下手だからノッペは作らない…は逃げの向上の言葉になるようだが、実際には逃げてどうにもなるものでは無い。
 作る回数が増えてゆかねば、上手な料理にはならない。下手だから作らない…は逃げ口上にしかならない。お母さんが仕事を持っていれば、なおのことだ。おいしく仕上がる可能性は低くなる。
 覚めてみれば、それが正月の味なのだ。買ってきて出す料理に頼ったって、何も意味を持たない。初めから料理上手になれる訳がないのだ。旦那も我が子も、出入りするそこを評価しても意味がない。初めからの上手は存在しないのだ。
 正月の行事はそのように年に一度の行事が多い。その行動に自力以上の出来上がりがあったとして、何の意味があるのだろう。年に一度の行動なのだから美味しいわけなどありようがないのだ。
 毎年毎年、思い出しては料理を聞き直して、やってみて、翌年の学びにしてゆく。今年の暮れは今年の正月の料理の味ではない。長い年月がかかってその家のノッペの味が固まってゆくのだ。下手だから作らない…では意味がない。
 旦那も作ればよいのにという声も聴くが、作っても旦那の味にしかならない。調理に才能が必要だとしても、その才能にに恵まれたから、どうなるわけでもない。
 要するに、その家その家の味が作られてゆく。忙しいのに夜なべをして作った料理の何が不味かろう。それが美味しかろうと不味かろうと、正月が来るたびに、母の味・家の味を思い出す。下手でも上手でも母親の味を食べられる幸せを得られる…それが正月料理の意味の様だ。それが親の味というもののようだ。

 



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