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令和8年は6月を迎え、早や月中ばが過ぎた。まだ梅雨入りをしていないのだから当たり前と言われれば言葉もないのだが、この時期なのに、毎日青空である。水原と言う在郷に暮らしていながら、この青空には言葉もなく嬉しくなる。新潟平野が一面の青空になっているのは有難い。
米や野菜の生育と結び付けたりして有難いのではなく、ただ一面の青空が有難いのである。
6月と言えば、筆者が思うのは新潟地震である。中学二年の時だった。昼食を食べ終えた昼休みだった気がする。それまで地震に遭遇したことがなかった筆者たちは一目散に階段を走って、校庭にのがれた。大集団は雑多な移動だった。生活指導の先生が教員玄関に狭い屋上の鉄柵に一人しがみついておられた。普段の大威張りの姿はどこにもなかった。
あの頃は自然災害にしょっちゅう出会っていた。第二室戸台風に始まって、三八豪雪、そして羽越水害と続けざまの様だった。
それでも、8・28羽越水害の時には、今板集落へ飛んで言った。筆者が高校二年の8月29日の事だった。「今板」集落が土石流にやられた…と言うニュースが入っていた。我が家の心配はしなくて良い水害であった。何はともあれ、自転車にスコップを付けて今板へ走った。
旧笹神地区に入っても普段と変わらぬ景色だったが、次郎丸と言う集落に至って、すごい被災となっていた…。その奥の羽黒集落迄は自転車を引っ張って行ったが、驚いた…。そこから出湯集落までの原っぱが砂原になっていた。
「こんな風景になるのか…」と思って今板に向かった。被災前は一面の田圃で、被災しなければ稲穂が垂れ始めていたはずだった。」田圃はどうなるのだろう」と思いながら…。普段はバスの通る道が一本だけなのに、この日はどこをどう歩こうと自由で心配のない一面の砂漠だった。
何と言ったら復旧の手伝いをさせてもらえるのだろう…と思いつつ歩いた。そして流れ着いた土砂と格闘を始めた。
知り合いもない集落だから、どこの家でもよかったのだが、とにかく勝手に砂を掻き出した。
そこの家のお父さんが飛んでこられた。叱られるかと思ったが、涙を流しておられた。頭を何度も下げて「ありがとうございます」を繰り返し言っておられた。どれほど働けるか判らないし、かえって邪魔になるかもしれないのに、受け入れて働かせて下さった。
お昼をどのように食べたか…記憶にない。おにぎりを持って行ったのは記憶にあるが…。
夕方になって帰った。どうやら邪魔にはなっていなかったようだ。翌日は学校に召集されていた。今板復旧への段取りの説明があった。担当の教師は、けがの心配やらをくどくど話していた。この日も学校から居めいたに向かった自転車ではなく、この日はバスに乗ってだった。
今思い返しても、不思議な気がする…。学校は県の指示で救援作業に加わることに決まったが、担任は勉強を優先させたかったようだ。生徒は受験勉強を優先してほしいような言い方だった。救援作業をして大学に滑ったとしたら、救援作業がどれほどの価値のない事なのか、を担任は頻りに匂わせた発言をしていた。
良いじゃないか、それで大学入試に落ちても…こういう非常時に際してもなお大学教授に受かる事を指導する講師とは何なのだろう…と思った。学校の方で、授業より災害復旧の方が大事だと強制することもどうかと思うが、この期に及んでもまだ、受験合格だけを願うこの教師に筆者は唖然とする思いが消えなかった。
こういう時のための学問のはずなのに、それを言い出す気すら無かったようだった。幼児教育を大学時代に学んだという教師であったが、ピンチに何が大切か、と言う答えの出せない日常だった。情けないといまだに思う。そういう教師に担任されての高校生活だった。それを今でも口惜しく切なく思ってしまう。
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